この時に當りて將軍綱吉頗る學を好み、諸侯中に在りては綱紀・水戸侯光圀と共に亦好學者の白眉たり。而も光圀は寧ろ綱吉の憚る所たりしを以て、綱紀獨その趣味を同じくする點に於いて親愛せられ、待遇亦漸く厚きを加へたりき。元祿二年八月九日將軍は前田氏の家格を進め、自今五節の佳辰に當りて謁を白書院に賜ふべきを命ぜらる。蓋し白書院に於いて謁見の禮を行ひ得るものは、從來尾張・紀伊・水戸三侯のみに止り、封境の大なること天下に冠たる前田・島津等の諸氏は、或は黒書院に於いてし、或は大廣間に於いてし、その他柳營當直の居室、賜與存間の禮皆甚だしく差等ありしが、綱吉は綱紀を優遇するの意を明らかにせんが爲に、初は月次の登營に親藩と室を同じくすることを許し、尋いで親藩を饗する時には必ず綱紀をしてこれに列せしむることゝし、今や更に白書院賜謁の令を下して全然三家と同格たらしめたるなり。 元祿四年十二月二十六日綱吉又綱紀に許すに、その老臣二人を叙爵せしむべきを以てせり。叙爵とは國守の稱を唱へ、朝臣の位階を授けらるゝをいふ。抑前田家に在りては、利家の時、天正十九年三月臣僚二人の叙爵を許されしを以て、村井長頼を豐後守に、篠原一孝を出羽守に任じたるを初とし、文祿三年には高畠定吉を石見守とし、中川光重を武藏守とし、その翌年には奧村永福を伊豫守に、神谷守孝を信濃守とし、後益多きを加へて、利長襲封の初年には凡べで十四人を算するに至りたりしが、彼等の相次いで卒するや又これを補ふことを爲さず。利常の時に於いて元和元年閏六月新たに本多政重を安房守、横山長知を山城守としたりしが、正保三年長知卒し、四年政重の卒したる後は、全く叙爵の臣を有せざるに至りしを、この命あるに及びて綱紀は本多政長を請ひて安房守たらしめ、前田孝貞を佐渡守たらしめき。孝貞は後佐渡守を改めて駿河守と稱す。是の時老中牧野成貞は、幕府が漸を追ひて加賀藩の諸大夫を四人に増加するの意あるを傳へたりき。綱紀大に悦び、後柳澤吉保を介して速かに前約を履行せんことを求めしに、八年十二月更に一人を増すを許されて長尚連を大隅守となし、十五年四月綱吉の本郷邸に臨まんとするに先だち、叙爵の臣を四人たらしむべきを命じたりき。是より先、本多政長及び前田孝貞は共に退老せしを以て、綱紀乃ち尚連の外に本多政敏を安房守、前田直堅を近江守、横山任風を山城守たらしめんと欲し、請ひてその許可を得たり。この後叙爵の臣四人あること加賀藩の常制となる。