綱紀が好學の名は夙に世に顯れしといへども、その實力の將軍綱吉に認められたるは、元祿五年を以て初とせり。この年三月二十七日綱吉能樂を催し、諸侯を召して之を觀覽せしめき。既にしてその終るや、尾張・紀伊・水戸三侯は綱吉に請ふに、異日將軍親ら書を講じて之を陪聽するの榮を許されんことを以てせり。綱吉乃ち之を容れ、當月三侯も亦各講説する所あるべきを求めしに、三侯は皆辭し、綱紀をして衆に代らんことを勸めしかば、綱紀は遂に之を諾するに至りたりき。六月三日將軍則ち諸侯を召し、親ら大學の三綱領を講じたる後、綱紀中庸の首章を敷衍せり。後林鳳岡が綱紀の命によりて加賀中將講本中庸章句跋を作り、木下順庵の加賀菅侯奉旨進講中庸記を作りしもの皆之に因る。是より後綱紀の江戸に在る時は、屢將軍の講筵に陪し、六年九月廿八日には將軍の論語を講じたる後、綱紀をして大學を講ぜしめて帛若干を賞賜し、七年七月三日には將軍易の乾卦を講じたる後、綱紀をして論語の爲政篇を講ぜしめき。この日將軍は綱紀の請を容れて『徳不孤[徳惟善政政在養民]』の文字を大書して與へ、又屢金銀什器を賜ひたるもの、皆綱紀好學の志深きを嘉尚したるに依る。 元祿五年壬申三月廿七日御能御拜覽の後御目見の節、御三人(御三家)樣方、公方(綱吉)樣御講談の儀御願被仰上候所、如何樣御講釋可被遊と上意御座候而、御次へ御三人樣方御退出御列座被成候所、御老中並備後守(牧野成春)殿御出、御講釋之儀御願相叶珍重存候。各樣にも御一人成とも御講談被成候樣にと被仰入候處、何も不調法之由御挨拶の上、備後守達而御強被成候得共固御辭退に付、左候はゞ惣御名代に中將(綱紀)樣被遊候樣に被仰候而、即中將樣え御伺、御學問の事に候間、是非々々惣御名代に御讀被成候樣にと被仰候に付、終に御講釋と申儀被成候御儀無御座候。御前に而は猶以難被遊思召候旨被仰達候處、如何樣にても不苦候。とかく惣御名代に御讀可被成候。御三人樣方も御頼被成候得と、又御三人樣方へ御向被仰候故、御三人樣方も御會釋に而御座候。其節中將樣御三人樣方え、何とぞ御一人に而も被遊候はゞ可然旨、中將樣御一人は何とも難被爲成候旨被仰入候處、御三人樣がた・備後守殿、是非に中將樣御讀被成候樣にと達而被仰候に付、左候はゞ何分にもと先御挨拶被成、追付御退出の時分備後守殿、とかく御讀被成候はゞ可然候由卒度被仰候。畢竟御内意と被思召候に付、何分に茂御勤可被成候。少前方御内證も御座候はゞ、四書の内何れにても御讀可被成候由被仰達。其後右御能御見物之御禮爲可被仰上、備後守殿へ御越御逢被成候へば、又右之趣備後守被仰、とかく御讀被成候樣にと被仰候故、彌御意得被成候。少前方御内證被仰聞候樣に被仰入候得者、窺候而御左右可被成下候よし被仰。其後御家來御呼被成候に付、三好助左衞門罷越候所、中庸之初を御講述被成候樣にと被仰越候。其以後御忌明[二代目の飛騨守樣此年の五月十三日御卒去也]候而、備後守殿え御越被成候時分茂、彌御講釋御勤被成候筈に候旨備後守殿被仰候故、被得其意候旨被仰達候。扨去三日[六月三日也]御講釋以前備後守殿被仰候者、今日彌中庸之御講釋可被成候。御前と被思召御詞を被改候にも及不申候。御宿にて被成候樣に、無御遠慮御讀被成候樣にと被仰候付、最前も如被仰入候、終に御宿にても御講釋被遊たる御事無御座候。乍然何分に茂御讀可被成候。若半にて御講談つかへ申候者、末御素讀候而御通し可被成由被仰候得者、成程御尤に候。少茂無御遠慮被遊候樣にと御挨拶候而、追付御講釋[大學經一章]御拜聞、御熨斗鮑頂戴。其次に御見臺出、備後守殿御會釋、有増御繪圖之通御中座被成、御講述被遊候處、御仕合に而御素讀御講述共に御一言茂無御滯御勤被成候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話追加〕 前田孝知宛前田綱紀書翰河北郡加賀神社藏 前田孝知宛前田綱紀書翰