四海波穩かにして雨塊を破らざる時に當り、假令眞の戎事にあらざるも、兵馬を進め器仗を動かしゝ事あるは、亦頗る珍とすべし。元祿五年七月二十八日幕府は飛騨國高山城主金森頼旹の封を出羽國上山に移し、高山は爲に空城となりたるを以て、八月二十二日老中戸田忠昌は在江戸の加賀藩吏をその邸に招き、加賀藩が隣境にあるを以て兵馬を派してこれに屯戍せしむべく、その人員と弓鎗鐵炮とは食邑一萬石に對する軍役に相當するものたるべきを以てしたりき。綱紀報を得て忠昌を訪ひ、幕府の命を諒としたることを告げ、次いで藩の馬廻頭永井織部正良・使番平田清左衞門・横目中村伊兵衞をしてその任に當らしめき。初め閣老は高山城授受の順序を定め、幕府の使番たる淺野伊左衞門先づ往きて城を金森氏に受け、而して伊左衞門は更に之を加賀藩に交付すべしとせり。然るに加賀藩にありては出張の準備已に整ひたるも、幕吏は尚その途に上らざりしを以て伊左衞門に督促して授受の期を定めしめ、九月十日綱紀は總將永井正良等に軍令を授け、翌日江戸を發して一たび金澤に歸り、次いで高山に赴かしめしが、出張の惣員一千人に達したりき。加賀藩が此の如く迅速に事を處するを得て、毫も紛雜の状を示すことなかりしは、一に綱紀が平生心を軍制百般の事に用ひ、武備を懈ることなかりしによるといへり。 既にして永井正良は高山に至り、十月三日を以て城を淺野伊左衞門より受け、士卒を部署し、晝夜交番して城門警衞の事に當らしめ、又事變に處するの順序、日常服務の心得等を定め、誓詞を徴して敢へて號令に違ふこと勿らしめき。この任務は固より單に空城を守備するにありしを以て、その後何等重大の事件を生ずることなく、正良がこゝに留ること半歳の後、綱紀は藤田安勝の率ゐる部隊をして之に代らしめ、次いで津田求馬・野村五郎兵衞・山崎源五左衞門は各半歳毎に交替せり。