是より先元祿五年冬、藩は馬廻頭半田惣兵衞に命ずるに、明春を以て高山屯戍の任に當るべきを以てし、且つ前任永井正良の率ゐたる兵數の過大たりしを以て、宜しく藩の規定する軍役を確守すべきを戒めたりき。然るに惣兵衞は又私意を加へ、その人員を過小ならしめて録進したりしかば、綱紀は惣兵衞が命に從はざるの罪を鳴らし、その任を奪ひて蟄居せしめ、新たに藤田安勝を以て之に代らしめたり。 半田惣兵衞が綱紀の譴を受くるや、葛卷昌興は書を上りて、侯の處置の過酷なるを諫めたりき。その意にいふ。侯の命を下すときは、必ず手書を以てするを例とせり。然るに文字の記する所は言語の表明し得る所と異にして、事の緩急輕重大小を察すること甚だ困難なるが故に、菲才闇愚の臣屬、侯の眞意の存する所を知るに苦しみ、不慮の過失に陷ること往々にしてこれあり。而して惣兵衞這次の處置の如きも、亦偶侯の命じたる人員を縮少すべしとの語を誤解したるに外ならず。此の如き一些事を咎めて、彼が高山屯戍の重任を解くが如きは、治國の要たる君臣合體の理想を實現し得べき所以にあらざるなりと。昌興がこの書を上りしは、實に元祿六年三月六日に在りしが、八日綱紀は親書を昌興に與へてその苦諫を賞すると同時に、この擧の如きは近習の臣屬として大に愼まざるべからざる所以を諭せり。然るに昌興の先に意見を上るや、固より意に決する所ありしかば、疾と稱して邸内に屏居し、その僕隸を放つ等擧措頗る穩當を缺けり。是を以て藩吏昌興を以て喪心せりとなし、六月十日これを拉して寺西宗寛の家に禁錮し、十八日能登の津向に流謫せり。而して侯は特に之に與ふるに十人扶持を以てし、後罪を赦したりしも昌興はその命を奉ぜず、配所に在ること十三年、危坐して席を移さず。偶人の金澤より至るあれば、唯綱紀の起居を問ふの外決して言語を交へざりき。嘗て守者に謂ひて曰く、古の士職場に赴きて國難に殉ぜしもの多し、而して我が志も亦此の如しと。寳永二年二月四日その地に歿す。