元祿八年春、高山に屯戍する加賀藩の將卒交代の期に當り、和田小右衞門命ぜられてその任に當らんとせしが、偶幕府は使を金澤に發し、綱紀に命ずるに高山城を廢毀すべきを以てしたりき。綱紀乃ち小右衞門の任を止め、大小將組頭奧村市右衞門を以て廢城事務の主管たらしめ、作事奉行近藤三郎左衞門・普請奉行前田清八をして土功を掌らしめ、横目矢部權丞監督の任に膺り、而して與力・歩士・足輕之に屬せり。次いで綱紀は、その事をして遺漏なからしめんが爲、己に代りて老臣前田孝貞を遣はさんとせしに、孝貞は時に年七十に垂とせしが、意氣凜然、進みてその命を辱かしめざらんことを期したりき。然るに綱紀のこれを幕府に告ぐるに及び、幕府はその必要なかるべきを諭したるを以て止め、頭役二人を巡見使として發遣せり。高山城屯戍事件は前後四年に亙りて終る。 元祿八年、領内風雨順を失ひて五穀登らざりしかば、農民は貢租を納るゝこと能はず、爲にその資財を賣りて之を償ふものあるに至り、米價亦騰貴して衣食を得る能はざるもの甚だ多かりき。是より先綱紀は、七月六日を以て江戸に往きしが、金澤に留守せる老臣本多政長・前田孝貞以下、皆この危急の時に際して何等積極的手段を講ずる能はず、唯纔かに改作法に規定せらるゝ貸米を農民に交付したるに過ぎず。米價引下の方法としては、士人に一日一食は必ず粥を以てすることを令し、藏米に殘餘あるものは悉く賣却せしめ、又城下に米穀を搬入せんとする者ある時郊外に要して強買するを禁じ、三十日以上に亙りたる延賣買を停止したる如きは、稍措置の妥當なるを見るといへども、商人の米穀賣買に公定價格を設けしかば、彼等はその利益を壟斷する能はざるを以て、米を藩外に輸出して高直に賣拂はんと企て、或は貯藏米を隱匿して賣惜しむものあり。遂に九年七月には、米穀の貯藏皆無ならざるに拘らず、之を購ふこと能はざるに至りたりき。蓋し當年米價の高直は、獨加賀藩のみに止らざりしを以て、更に大局に注目したる施設を要したりしなり。