元祿十四年十二月廿二日綱紀江戸城に登りしに、將軍綱吉は老中をして明年綱紀の本郷邸に臨まんとするの意あることを告げしめき。是に於いて綱紀は、將軍を迎ふるが爲に新たに殿閣を興造せしめんと欲し、翌十五年正月六日普請奉行以下の職員を命じ、又幕府の工長等に囑託して補助する所あらしめ、二月四日斧初の式を擧げしより殆ど晝夜を通じて工事の進捗を計り、殊に間分(マワケ)奉行を置きて分割經營せしめしかば、さしもに廣大壯麗を極めたる建築も四月十一日に至りて竣成するを得たりき。その中御成御殿のみの棟數四十八・建坪三千坪にして、別に綱紀の居室も亦新造せられしが、その工事期間の短小なること古今に例を見ずといはれしと共に、從業者の員數、消費の金銀物資、擧げて計るべからざるものありき。かくて殿閣の興造已に終り、將軍は同月廿六日を以て臨邸の期と定めたりしが故に、綱紀は各種の事務を分擔せしむるが爲人を藩地より召しゝが、之を收容するに要する小屋四百餘を建設するに至れり。