かくて一代の豪奢を極めたる盛宴は終れり。この日將軍の本郷邸に入りしは晝九ツ前にして、その還りしは七ツ半なりしといへば、その間實に今の五時間餘に過ぎず。而して爲に失ひたる費用と勞力との如何に多大なりしかを顧みれば、當に呆然たらざるを得ざりしなるべし。されば藩士有澤永貞の手記にこの日の事を記したる後、『いと疲て早く臥す。舊臘よりして今日の御用意のみ。其しるし只一時に事つきぬ。』といへるは、實に萬人の言はんと欲する所を盡くしゝなり。但し事後の饗宴は尚久しきに亙り、幕府の老中以下を招請して將軍台臨の無事に終りたるを祝すること數十回に及び、閏八月に至りて綱紀は國に就けり。 享保二年には綱紀既に七十五歳の高齡なりしが、九月二十七日江戸を發し、十月十三日を以て金澤に入りたりき。抑江戸と金澤との間の行旅は、信濃追分より越後高田を經るを捷路とするが故に、その就封參觀共に多くは途をこゝに取り、稀に東海道を經て越前に入ることもなきにあらざりしが、綱紀はこの時初めて木曾路に由りたりしなり。然るに木曾路には福島に幕府の關門ありて、その規定によれば、尾張及び紀伊侯は鐵炮二十五挺を携へしむるを得るも、前田氏には五挺を許さるゝのみなりき。綱紀は下街道を通過するとき六十挺を携へ得るの例なりしが故に、木曾路に於いても亦同一ならしめんとの意あり。乃ち豫め澤田源太夫を幕府の老中に遣はして之が過書を請はしめき。時に水野忠之月番老中たりしが、彼はこの事甚だ重大なるを以て宜しく綱紀自筆の書面を呈して請ふ所あるべく、否らずんば之を將軍に稟請する能はずといひしに、綱紀は、我が家の先例によれば是等の事を請ふに常に臣僚の書を以てせるが故に、今に至りて自筆を用ふるは即ち格式を賤しくする所以にして、余の能く堪ふる所にあらずとて峻拒したりき。是に於いて使者往返すること數次に及びしが、遂に希望を達すること能はざりしを以て、綱紀は已むを得ず旅程に就きたりしも尚不平の念に堪へず。乃ちその顚末を記して林大學頭鳳岡に送り、假令封土を喪ふとも自筆の書を發せずして、その請ふ所を實行せんとするの意あることを告げたりき。鳳岡これを見て大に驚き、直に老中に告ぐる所あり。老中も亦將軍吉宗に以聞せしに、將軍は固より綱紀の閲歴と才幹とを尊重せしを以て、戸田山城守忠眞に命じて圓滿に解決せしめんとせり。忠眞因りて綱紀に將軍が侯の請を許したることを告げ、綱紀をしてその家臣の過書を關吏に提出して通過するを得しめき。綱紀が常に幕府に對して恭順なりしに拘らず、獨この問題に就いてのみ非常に強硬なりしは、一に藩の面目を維持せんとしたるに因るといふ。 木曾路初而御歸國之時分、福島の御關所御鐵炮の事、聞香澤田源太夫(長影)を以、小松中納言以來御持筒六拾挺上州坂本まで御爲持被遊候。此度木曾路御旅行に付、福島の御關所無異儀相通候樣被遊度候旨水野和泉守(忠之)まで被仰入候處、重き御頼之儀候間御直之御願紙面御指出被成候樣にとの儀に付、罷歸其段達御聽候所、左樣之事を源太夫諸候か。罷歸候儀沙汰之限に被思召候。青木織部など御用人相勤候節は、御家の御爲第一に仕り、御入國以後爲御禮御使者被指出候御書の御草案等、御廐に被爲入候所夫え持參いたし入御覽申候。御老中方え之御書、御片御名字に候ゆへ、是は如何に候由被仰出候得者、御代々如此御座候間、此分に被遊可然由達而申上候へども、當時は如此にても、末々當世の風俗にては被爲成間敷候。其時に至り御改被遊候ては見苦敷可有之候。一向唯今より御改被遊候儀目に立申間敷之旨御意被成、其時より諸御名字に成申候。思召の如く、當時中々御片名字などは思ひ寄も無之躰に成申候。ヶ樣に少にても御家の落目の樣に成申所は達而申上候所、唯今の者共は中々左樣の所まで參屆不申、其上先年金銀改り候節も、諸大名方何茂御領分不殘引替相濟候段御直之紙面出申候。御三家方並此方樣にては、御家老中の紙面にて事濟申候。かやうの重品、公儀御用にも御直の御紙面など御出の事無之候。左樣に相心得、如何やうにも宜敷可申入旨御意に付、和泉殿え罷越申達候へども、取次之者も中々請不申、重而和泉守え申聞候儀難仕などゝ申、右之樣子にて源太夫も致迷惑罷在候。二三日過和泉殿より聞番呼に參り、源太夫罷出候所、福島御關所御筒之儀、無異儀相通し候樣に宿次奉書を以被相達候間、御勝手次第御持せ可被遊候。但福島にて御家老衆より證文可被指出候。夫にて事濟候由被仰渡、悉く埒明申候。如何之儀にて加樣に早速事濟候哉と、何茂驚罷在候。(其内三年(享保)御參府被遊候所、大橋藤藏公儀の御右筆也。元本多安房守家來筋の者に候所、樣子有之致浪人、先年江戸え罷出、公儀被召出候。御家之御右筆と違、御老中方の留書外、こなた樣にて年寄衆執筆のごとく被勤、格式も至而輕く候。加州よりの仁に付、御家の御用萬事承り被申候。)山本源右衞門をひそか成所へ相招被申候は、去年御歸國の時分福島御關所御鐵炮の事、承候哉与被相尋候。成程宿次御奉書等之儀者致承知候。其外者不承由申入候へば、其儀に付御鐵炮之事御願之節、御直之御紙面は難被指出旨に付、御老中御詮議最中の時分、或日林大學頭殿より封付状箱參り、久世大和守(重之)殿御披見被成、何事かは不存、加賀守殿にはかやうに可有之と存候旨にて、外御老中え御廻し被成候。何も苦々敷御顏色にて御披見被成候。其以後押付福島え之奉書可相調由にて、御鐵炮の事埒明申候。如何の子細に候哉と存罷在候所、御發駕被成十日計立候而、書付紙面等一括私共仲間え御渡し候。是は加賀守殿木曾路鐵炮一卷に候。次第を見分け、帳面に仕立置可申旨被仰渡候。其故委細披見仕候内に、大學頭(林鳳岡)殿迄被遣候宰相(綱紀)樣御書有之候。此度木曾路御歸國に付、御先代より爲御持被成候六十挺の御筒、福島御關所無異儀相通候樣被成度御願の趣、和泉守殿迄御聞番役之者を以被仰入候所、御直之御願紙面被指出候樣に被仰聞候。左樣に無之候而は御取次も難被成由に候。御先代よりヶ樣の儀に付御直紙面御出しの事無之候。たとへ御領國を被指上候而も、御直紙面は御出し被成間敷候。此段表向より被仰達候而は如何に候間、大學頭殿まで被仰入候。如何樣にも宜御取計ひ候樣にと有之御書に御座候。其趣御披見候而、御老中方何も御難澁の御顏色と見え申候。何も御披見以後被達上聞候や、早速奉書に調候樣にとの事に成申候。御手づよ成御事御座候。藤藏も御當家樣の御事は御大切に奉存候故、追而拜見仕候而もひやあせ出申御事に候。此段源右衞門え早速咄申度罷越候旨、御上屋敷にて物語仕候由咄承り申候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話追加〕