綱紀がその晩年に於いて上洛せし事も、亦異數として之を記せざるべからず。蓋し幕府に在りては諸侯の公卿と親昵し、之に因りて朝廷と近接するの結果を來すことはその最も忌む所なりしを以て、諸侯も亦この方針に從ひ、參覲の途次にありてすら京師の市坊に入らざるを常としたるのみならず、天和三年七月に公布せる武家諸法度には、『總じて公家と縁邊を結ぶに於ては、奉行所に達し差圖を受くべき事。』との一條を規定して、公武間の私婚を禁じたりき。然るに右大臣二條綱平は、その子吉忠の爲に綱紀の女直姫を娶らんと欲し、事の幕府の根本主義に反するを以て、將軍綱吉の生母桂昌院の斡旋を煩し、之を綱紀に懇請する所ありき。然るに綱紀に在りては、その女を公卿に嫁せしむる時は、入洛して再び相見るを得るの機會なかるべきを憂へ、寧ろ之を喜ばざる色ありしが、桂昌院は將軍に請ひ、特に他日綱紀の上洛を許さるべきを條件として、元祿十年納采の典を擧ぐるに至れり。時に直姫四歳なりしを以て、尚未だ入輿せざりしといへども、是より兩家は義に於いて姻戚たり。是を以て寳永六年五月朔朝廷の徳川家宜に將軍宣下を行ふや、綱平等勅使として江戸に赴きしに、綱紀は同月七日綱平を本郷邸に迎へ、盛宴を張りてこれを饗せり。既にして直姫入輿の期近からんとするに及び、綱紀藩臣を京師に遣はし、二條家の爲に悉くその殿閣を新造せり。直姫正徳二年七月上洛し、同月廿六日内大臣吉忠に嫁す。直姫の尚藩に在りし時、綱紀はその臣前田孝行の女を養ひて子とし、以て直姫の伴侶たらしめき。壽姫といふもの即ち是なり。こゝに至りて綱紀は獨直姫が京師に在るの寂寥を憐み、又幕府に請ひて、三年四月壽姫を三條西中納言公福の夫人とせり。