直姫は二條家に入りし後、名を改めて榮君といひ、正徳三年六月三日辰君を生み、五年八月二十四日又永君を生みしかば、祖父綱紀が上京の希望は勃々として禁ずる能はざるものあり。爲に享保二年以降毎年之を實行せんと計りしも、常に事に妨げられて果すこと能はざりしが、五年に至りて遂に素志を達するを得たり。この年綱紀の江戸を發せしは四月二日にして、十五日その著京するや即日二條邸を訪ひたりき。綱紀、榮君と相見ざること既に九年なりしが、今は則ち母儀となりて二女を育するを見、老懷喜悦に堪へず。後に林大學頭鳳岡に書を贈りて、『榮君え久々にて對面、互に□□難述盡紙筆へ、殊孫□初而逢申候處、存候よりは□致成長、兩姫共にさいしん□質も宜敷、あひ〱敷御□、不覺長座仕候。』といへり。而して三條西家に在りては、夫人壽君已に前年三月逝去したりといへども、綱紀亦之を訪ひて、公福と義父子たるの誼を厚くし、更に舊故の朝紳と往來し、十六日には紫野大徳寺に至りて芳春院の靈廟を拜し、この日直に大津に出でゝ宿し、十八日大津を發して二十三日金澤に歸着せり。綱紀が滯京前後僅かに二日にして倉皇退きしもの、實に幕府を憚りしが爲ならずんばあらず。綱紀の孫辰君は後に有栖川職仁親王の妃となり、永君は後櫻町天皇の中宮となる。榮君元文元年八月二十七日從三位に叙し、名を利子と改め、寛延元年十二月六日五十六歳を以て薨ぜり。 享保八年綱紀の齡八十一歳に達せしが、腕部に疼痛を感じ、手指麻痺して刀欛を握る能ざるに至りたりき。この時に當りて藩の財政整理略その緒に就き、制度百般の施設亦悉く完備したりしを以て、四月二十六日綱紀は書を上りて骸骨を乞ひ、五月九日その許可を得たり。この日將軍吉宗は、綱紀の女壻鳥取侯池田吉泰及び世子吉徳を召し、吉徳をしてその封を襲がしめ、且つ賜ふに優旨を以てせり。吉徳は先に利興といひしものにして、この時は尚吉治と稱したるなり。翌日綱紀使を發してその退隱せることを金澤に告げしめ、二十一日普く藩臣の知る所となれり。 昨日(八日)御奉書に依て、綱紀公御名代右衞門(九日)督吉泰朝臣、吉治公御登城之處(吉徳)、於御座間直に綱紀公御隱居、吉治公御家督被仰付之由上意有之。 今般加賀守(綱紀)隱居被相願に依て其通被仰出、且又若狹守(吉徳)家督被願之通、目出度被思召候。先以八十有餘迄政務無悉、領國之人民朝暮安堵之思を成、其業を不忘事、誠以近代天下に無其例、御羨敷被思召候。此上は萬端被指止可有休息候。久々御對顏無之候。下乘より歩行の間も程遠く、被致難儀之段被聞召候。痛所氣色次第、平河口より登城可有候。尤先達而不及案内、何時に不寄可被罷出候。御對顏可被遊と思召之旨上意云々。 〔參議公年表〕