綱紀人と爲り、英明敏慧にして仁慈忠厚、幼冲より封を襲ぎ、長ずるに及びて勵精學を勉め、法令を定め制度を立つ。是を以て天下その政事の美を推稱して一加賀二土佐といふに至れり。綱紀の晩年將軍吉宗、近臣有馬兵庫頭を介して綱紀の政事を室直清に問はしめき、直清即ち加賀藩の邸に至りて詳かに綱紀に諮ひ、綱紀が誠敬上に仕へ、仁慈下を恤み、政令巨細となく皆己に出づるを以て、才能をして各その處を得しめ、又好學の心厚くして該博古今に亙り、疑義あれば即ち歴史を引きて之を斷決すること、當世諸侯の能く比肩すべきものなきの状を以て復命せしに、兵庫頭聽きて大に感嘆し、之を將軍に以聞せり。後直清進講の次、將軍又親しく綱紀が政事の善美と學問の工夫とを聞きてこれを稱賛すといふ。綱紀毎に人を四方に遣り、天下の遺書を蒐め、上は朝廷の儀禮射御の法術より、下は民俗の細故に至るまで、斷簡零紙といへども徴とすべきあれば價を論ぜずして之を購ひ、縉紳の秘府又は社寺に藏する書は百方紹介を納れて謄寫せしものも鮮からず。長崎奉行に囑して、外舶齎す所のものを購ひしこと亦多し。常に曰く、我大國を領して財田匱乏せず。故に賑貸の餘を利用して、天下後世の爲に珍籍秘册を求むるのみと。是を以て加賀は天下の書府なりと稱せらるゝに至れり。綱紀又孝敬に篤く、江戸より國に就く毎に必ず正服を著けて先づ祖考の廟に謁し、老臣を犒勞し、而して後に家人を見たりき。元祿元年六月綱紀江戸より歸りしとき、越中の民新穀を献ずるものあり。綱紀老臣に語りて曰く、小氏すら尚時新を邦君に進めて之を甞めしむるを念ふ。况や忠孝を以て斯民を率ゐ、以て宗廟に事ふる者に於いてをや。今より後時新の物は先づ之を祖宗に薦むべしと。後加賀藩の例となる。綱紀臣僚を愛すること及ばざるが如く、群臣に給する所の常餼は時々親ら甞めて美惡を檢し、若し調理度を失ひ配盤法の如くならざるあれば必ず膳宰を責め、此の如きは人を畜養し士を奴隸視するなりといへり。綱紀の時は偃武修文の時に際したるを以て、頻に名儒を禮聘し文教を興しゝが、而も流弊の赴く所或は軟弱に墮せんことを恐れ、笠掛犬追物等の儀を行ひ、又屢進獵に託して武事を講じ、江戸藩邸の災に罹りし時には自ら馬を躍らせて垣墻を踰え、焰煙を衝きて進み、以て群臣を鼓舞せり。一日銃師豐島是誠に問ひて曰く、士人の子弟汝に從ひて學ぶ者幾人かあると。是誠對へて曰く、その數を記せざるも決して少しとせずと。綱紀曰く、射を學ぶ者の多きは嘗て之を聞けり、銃を學ぶ者も亦少からざるは甚だ喜ぶべしと。是誠退きて之を老臣に語る。時に士人執銃を以て賤技となし、之を習ふを屑しとせざるの弊ありしが、是に至りて皆争ひて來り學べり。綱紀法令の力を假らずして衆を勸奬するに妙を得たること、多く此の類なり。綱紀嘗て寛永寺より歸り、侍臣に謂ひて曰く、汝等今日不忍池の新荷を見たりや。その柔妍は頗る愛すべきも、是等は久しきに堪へずして凋零すべく、能く秋に至る者は晩出の者に非ざれば不可なり。かの馬も亦然り、早熟なるが故に數十年の役に堪へず。唯人は之と異にして、生まれて二十年にして初めて用ふべく、數十年に及ぶも尚衰へず。早熟者の晩成者に如かざること以て知るべしと。又一日侍臣に問ひて曰く、本朝古へより誰をか賢人君子と稱すべきやと。侍臣曰く、余輩多くを知らず、然れども聖徳太子・小松内大臣・楠廷尉の如き或は賢人と稱すべきかと。侯曰く、世に聖徳太子を以て賢者となすものあれども、余は其の理由を知らず。太子の政を執るや朝憲を紊り、皇威の不振を致し、天子即位の禮を行ふとき法華經を誦せしめしが如き、妄擧一々數ふべからず。重盛は一門の僣驕奢侈を見、その滅亡の久しからざるを憂へて死を神明に祈り、命を君父に致すことを思はず。獨楠公に至りては、眞に古今の忠臣といふべし。たゞ湊川の一死稍時機の早きに失したる憾あるのみと。初め朱舜水が水戸侯光圀の聘に應じて江戸に來りしとき、綱紀は儒臣五十川剛伯をして就きて學ばしめ、遂に之を介して楠公傳を草せんことを求めしに、舜水は傳に代ふるに賛を以てせんことを請へり。綱紀乃ち先に狩野探幽に命じて描かしめたる楠公訣別の圖を送り、寛文十年舜水をしてその作る所の文を圖上に書せしめき。後光圀が楠公の碑を湊川に建つるに及び、その碑陰に刻したるものは即ち是なり。綱紀の大楠公を尊崇せしことその早きにあるを見るべし。