既にして連頼大に先非を悔い、佐藤勘右衞門を使者たらしめて京師に遣はし、久しからずして孫右衞門を召還せんとの條件を附して、先づ釆女の歸參を求めたりき。高田内匠潛かにこれを聞き、事態の急に一變して彼の爲に不利たらんとするを慮り、同月七日を以て小松に至り、常時その地に隱棲せる老侯利常の近習に就き善後の方法を議したりしに、却りて彼が私曲を行ひしこと露顯せしかば、利常の命によりて追放に處せられたりき。次いで十月十日加藤采女は長家に歸參し、而して連頼が孫右衞門を召還することに就いては、初め阿部甚右衞門が彼を伊豫侯に周旋したる關係あるを以て、亦甚右衞門に囑して計らしめんとせり。甚右衞門これを辭して曰く、余固より犬馬の勞を厭はざるべし。然れども曩に伊豫侯の孫右衞門を祿するや、余は侯に謝して生涯の厚恩なりといへり。されば今何の理由を設けて再び彼を得んと言はんや。况や長氏が加賀藩の重臣たることは伊豫侯の能く知る所なるが故に、余が加賀藩に諂ひて前言を食めりとせらるゝあらば、何の面目ありてか他日伊豫侯に見ゆるを得べき。卿之を諒とし、余をして交渉の任に當らしむること勿れと。連頼已むを得ずしてこれを利常に告げ、侯の力を假りて高木筑後守正次に頼り、以て纔かに其の意を伊豫侯に致すことを得たり。此の時先の孫右衞門已に歿し、子兵庫父の名を襲ぎたりしが、伊豫侯は之を去らしむるを欲せざりしといへども、利常の依頼を拒むごと能はざりしを以て、遂に暇を與へたりき。 慶安元年孫右衞門は加賀に歸りて長氏に復仕し、前祿に五十石を加へて七百石を授けられ、その子兵庫は別に二百石を得たり。この時、長氏の臣阿岸氏に嗣子なくして祀を絶ちしを以て、孫右衞門はまた次子掃部に遺跡を起して四百石を受け組頭の職に居らしめき。是より後浦野氏の勢威漸く加はりしが、忠良の子孫必ずしも復忠良なること能はず、孫右衞門は先の内匠の如く連りに專恣の行を爲し、兄弟子女多く權門勢家と婚を通じ、漸く驕奢の心を生じて同僚と不和を釀すに至れり。この時長氏は、尚連龍の時と同じく鹿島半郡を有したるを以て、他の諸士が藩の領内各所に散在したる知行所を有するものと大に趣を異にせしかば、その一族士卒多く兩地の間に相往來して事務を執れり。殊に孫右衞門にありては、その職金銀出納に關することを掌りたりしが、常に長氏領土の首邑田鶴濱に住居するを好み、領内の改作方奉行以下十村・肝煎に至るまで、大小の屬吏は皆之を延きて己の黨與たらしめ、地味の勝れたる所を同類に頒ち、その劣れるを主家の臺所入となし、以て私利を圖るに汲々たりき。田鶴濱なる東嶺寺所藏の長谷部信連并連龍能州所領害と題したる册子に、浦野一黨の所行を記して、『能登に居住して金澤へ出る事稀也。侍の風俗をわすれ、田畠にのみ心を寄、利徳のみに情(セイ)を入れ』といふもの即ち是なり。事情此の如くなりしを以て、金澤に住したる長氏の老臣は浦野一黨を憎惡すること甚だしく、之に反して孫右衞門に阿附するものは金澤の老臣を讒し、その間頗る相乖離せり。而して反浦野黨の首魁たりしは即ち前の加藤釆女の子釆女なり。その後孫右衞門の非行益甚だしきを加へ、諸士の新開を請ふものあるときは、先例に違ふを理由として禁止せりといへども、己の一族には自分開と稱して隱田の開墾を許し、而して農民の之を非難するを恐れ、彼等をして緘默を守らしむるが爲に、その貢納する米質の檢査を寛大にし、藏奉行をして干渉する所なからしめたりしかば、寛文元年に於ける長氏の收納成績頗る佳良ならず、その賣拂ひたる米穀の價格大に低廉なりき。是に於いて金澤の老臣は、半郡中の農吏を召喚して審問し、その中道閑・上野・池島三人の十村を一時禁牢に處し、大町藏奉行大野治兵衞・金丸藏奉行河島治兵衞を譴責し、翌二年に至りて二人の食祿を沒收せり。