前田光高の治世は、寛永十六年に起りて正保二年に至る間に過ぎざりしも、之に次げる綱紀の世は正保二年より享保八年までの長年月に亙り、徳川幕府中期の最も隆盛なる時に屬すると共に、加賀藩に於いても亦その盛運の極に在り。本編に藩治恢弘期と名づけたるものは、即ち上記二侯の八十五年間をいひ、前代の末に漸く發したる奢侈の萌芽は、益成長して極まる所を知らざるの觀を呈せり。 この時期に於いても、士人娯樂の中心となり、又最も高尚なりとして嗜好せられしものは能樂なりき。されば彼の石川郡寺中なる佐那武明神の神事能の如きは、啻に年々繼續して興行奉納せられたるのみならず、その舞臺が先に大破したるを、寛文五年宮腰を初とし産子村方の寄進によりて再造せられ、士庶の之を觀るもの多きを加へて益盛況を呈するに至れり。この神事能は、初め毎歳八月十五日に於いてするを例としたりしが、貞享二年以後藩の許可を得て四月十五日に改むといふ。能大夫は先に諸橋氏專ら之を勤めしが、延寳五年藩侯が諸橋市十郎即ち後の喜太夫を江戸に伴ひたるを以て、この年波吉左平次信興の演ずることゝなり、爾後觀音院と寺中の兩秘事能に、概ね諸橋方と波吉方と交番して當るを慣例とするに至れり。諸橋大夫は初世以來今春流なりしが、喜太夫は喜多七太夫の門下より出でゝ統を續ぎ、貞享三年藩侯の命によりて寳生流を學び、又波吉大夫は初め觀世流なりしが、四世伊右衞門信秀の時今春流に變じ、六世右内信重に至りて元祿十三年寳生流となる。されば江戸の寳生大夫が加賀藩の祿を受けたることは、夙く利常の時に在りといへども、その流儀の廣く藩内に行はれたるは、實に諸橋・波吉兩大夫が寳生流に歸したる後に有りといふべし。 寛文巳五年舞臺(佐那武神社)出來す。宮腰其他産子村方奉加にて出來す。八月十五日當番(神主)將監方、大工九郎兵衞・伊兵衞・久兵衞・伊左衞門・半左衞門、以上百十一人掛り申候。木引半左衞門・左兵衞、〆卅九人、屋根葺七右衞門・理兵衞・五郎兵衞・五兵衞、〆七十四人四歩。此年天氣不宜、脇能鵜羽有。大夫諸橋也。 〔佐那武社古文類聚〕 ○ 諸橋喜太夫。喜太夫儀最前市十郎与申候而、喜多七太夫弟子に御座候處、藝道心懸宜候故、甚吉存生之内養子に仕置候由傳承仕候。併喜太夫實方相知不申候。甚吉死後喜太夫儀、金澤觀音院・寺中兩御神事能頭取被仰付相勤罷在候。然處松雲院(綱紀)樣御代、延寳三年三月被召出、御宛行五人扶持被下置、御能御用相勤罷在候。貞享二年二月結構之御書立を以、貳拾人扶持御加増被仰付、都合貳拾五人扶持被下置候。其節家藝寳生流に罷成候樣被仰付、同三年閏三月寳生大夫え弟子入被仰付、神文相遂申候。此時改流仕、家藝寳生流に罷成申候。 〔諸橋氏家譜〕 ○ 四世波吉伊右衞門信秀、寛永七年生、童名仁助。微妙院(利常)樣御代承應三年、於小松亡父左平次爲名跡被召出、二十人扶持切米十五石被下置、金春流相勤申候。微妙院樣御逝去後、金殿へ罷出る。寛文七年十一月廿八日死、年三十八。 五世波吉左平次信興、萬治三年生、童名長八郎。松雲院(綱紀)樣御代延寳三年三月、亡父伊右衞門爲名跡被召出、二十人扶持被下置、貞享二年二月五人扶持加増、都合二十五人扶持・切米十五石被下置候。寳永六年六月四日死、年五十。 延寳五年(原本頭書)左平次初て寺中神事能を勤む。諸橋喜太夫は江戸へ被召連、依て今年より波吉兩所(觀音院・寺中)に祭能相勤候由。 六世波吉右内信重、左平次信興二男、貞享四年生。初名龜之助近建。松雲院樣御代元祿十三年十月被召出、十人扶持被下置。十四歳寳生大夫弟子に被仰付、寳生流に改む。左平次死後、寳永七年七月家藝宜しく相勤候に付、左平次爲名跡二十五人扶持・切米十五石被下、只今迄被下置候十人扶持は差上候樣被仰渡、家相續す。享保十九年六月十九日死、年四十八。 〔波吉家由緒〕