藩祖利家以來重用せられたる今春流は、京都に於ける竹田權兵衞、加賀藩の大夫として祿を食み、事あるときは金澤に下りてその技を演ぜり。寛永十九年正月藩侯光高の在國して能樂を催しゝ時、番組七番中の五番は權兵衞の演ずる所なりしが如き即ち是なり。次いで綱紀は、藩内の能樂を寳生流に統一したりといへども、尚依然として權兵衞の扶持を廢せざりき。竹田氏はその系秦氏より出づと稱せらるゝものにして、綱紀の時の權兵衞は、初の名を平四郎諱を廣貞といひしが、歳俸三百石を食み、啻にその技に優秀なりしのみならず、亦學を好みて博識の譽あり、關白近衞氏以下搢紳の門に出入し、正徳五年歌舞名物同異抄を著して本邦舞樂の沿革を叙せしことあり。その書今尚世に行はる。