幸若の舞は、利常の菟裘を小松に營みし後に至りても、尚その賞翫する所たりき。されば藤田安勝筆記の微妙公夜話に、利常が毎宵その寢室に入るとき、幸若九左衞門・小四郎の父子は次室の縁側に於いて一曲を奏し退出するを常とせしが、その曲目に就きては、古市孫三郎等夜詰の間に之を利常に問ひ、利常も亦時に自ら之を謠ひしことありと記し、山本基庸の夜話録には、夜詰終り幸若小左衞門も退出したる後寢室に召されたることありといへる小左衞門は九左衞門のことなるべく、毛利詮益の拾纂名言記には、夜詰終りて何れも退出したる後、利常の就寢するまでの間に幸若九左衞門舞曲を奏するを常としたりしが、萬治元年十月十一日例の如く九左衞門がその勤務を了して家に歸りたる後、侯が急に病を發して薨じたることを述べたり。是に因りて觀れば、利常はその一生を通じて幸若の愛好者たりしなり。 是より先光高の時、亦幸若を業とするものに伊藤八右衞門・伊藤八左衞門二人ありて、侯は屢之を召して舞はしめたりしが、その卒するに及び扶持を沒收せられて、忽ち生計の困難を感ずるに至りたりき。幾くもなく八左衞門死し、八右衞門は他邦に流浪したりしが、その子を喪ふに及び再び金澤に歸り、老臣長氏の救助によりて纔かに生命を繋ぐことを得たり。かの利常に仕へたる幸若九左衞門も、亦侯の薨後祿を失ひ、天和の頃に至りては道心者となり、路頭に立ちて食を乞ひたりしといはれ、而してこの種の藝人の藩外より入り來ることは、既に寛文四年七月の達書に、『最前被仰出人形廻し・をどり子、並他國の座頭・舞々、無故ものゝ宿かす儀停止。』といふによりて防遏せられたり。されば之によりて略加賀藩に於ける幸若滅亡の時期を知るべく、且つ幸若を滅亡せしめたる綱紀は、即ち能樂を愛好したる綱紀なりしことを思はざるべからず。 琵琶法師も亦この時代を末期とすること、幸若と相似たり。高畠定延の菅君雜録に、貞享二年綱紀の養女恭姫は老臣長大隅守尚連に嫁せしが、翌三年七月朔日城に登りて侯に謁せしとき、侯は竹松檢校及び座頭なか都(イチ)をして平家を語らしめ、竹松に帷子二・單一・なか都に帷子二を賜ひたりとあれば、當時尚上流の賞翫する所たりしを知るべし。然るに寳永六年綱紀が琵琶法師の有無を調査せし時、藩吏の之に對する具申に、『御尋之趣奉承知候。精々僉議仕候處、先頃書上申候通、藤澤勾當外宜敷語申座頭無之候。誠ゆんと申者十句計、助都と申者十四句計覺候而語申候得共聲不宜、其上平家の正義曾而不存者共に御座候。』といへば、以て如何の状態に在りしかを察すべきなり。