歌舞伎の寛永八年以降行はれざりしことは前に言へる所なるが、この期に至りても亦甚だ盛ならざりしが如く、武家混目集に、明暦二年八月江戸より歌舞伎日向大夫金澤に下り、東本願寺末寺に芝居を構へて興行したるに諸人群參せりとの記事あるを見、又刑法拔書には、延寳元年犀川五枚町の大坂屋喜兵衞が歌舞伎狂言を演ずるものを招き、寺方に於いて興行したる廉を以て斬罪に處せられたることあり。こは寛文四年の禁令を犯したるによる。 この期にありては、江戸に於ける豪奢寛濶の風の藩の士人に影響せし所尠からず。寛永十九年利常の小松に在りし時、盂蘭盆の踊に黒田頼母が、『黒綸子に紅裏の投頭巾にて、若盛の事なれば、裝束美々敷踊り場へ出、』又津田玄蕃の子小姓が、『手拭にて覆面し、振袖長々として大小指し、その時分のくわやをどり』を踊りて、諸人の喝釆を博したりと三壺記に載せたる如き、亦士風の一面を窺ふに足るべきなり。元祿中本多安房守政敏が、江戸城の女中にして父母の法會を營まんが爲に伽羅を賣らんと欲するものありと聞き、僅かにその一小片を得て小判百兩を與へ、江戸人をして流石は大身なりと感嘆せしめ、又東海道を經て國に歸るの途、三保松原に新調の毛氈十五六枚を敷き、暫く風光を賞したる後之をその所に遺して去れりといふが如きは、食祿五萬石を受け家士數百人を有したる彼の行爲としては甚だしく驚くに足らずとするも、尚その手段の紀文・奈良茂輩に類似するを覺ゆるにあらずや。政敏の子に政質あり。政質は正徳五年十二月安房守に任ぜられたるを以て、翌年將軍に謝せんが爲江戸に赴くや、その行裝の華麗なること眞に人目を驚駭せしむるものありしといふも、亦質實剛健を理想とする士人の行爲として到底肯定し得べきにあらず。室鳩巣江戸に在りてこれを聞き、その門下たる藩士青地齊賢に與へたる書中に、『何方も同事の風俗不堪嘆息候』といへり。蓋し此の如きは、實に鳩巣の言の如く海内を通じたる弊風にして獨政質をのみ責むべきにあらざりしなり。 正徳六年正月本多周防守(政質)殿叙爵に付江戸へ被參候。其時分供廻行列夥敷事に候。供日用(日傭)計に百五十人骨柄を選雇被申、兩挾箱にて紅の打緒付申候。其跡に惣日用頭出來右衞門と申者、長き刀を指、大紋純(緞)子之羽織に、島繻子之裁付(タツツケ)、紅の胸紐にて致供候。惣供ゑいや聲を上てやつこをふり申候。跡供に家老中川内丞、羅紗の羽織着し致供候。其羽織金子十兩に出來致沙汰有之候。貴賤男女の見物夥敷事に候。然處淺野川橋近所より、周防守殿駕籠の内に伽羅を燒被申候。風流之由申慣候。見送り道中町端迄出居申人々も多由に候。頭分には村半藏・村田縫殿右衞門も出被申候由申慣候。江戸入の時分は、惣徒者不殘黒き長羽織を著せ、紅の丸ぐけの太き帶をいたさせ、其端を貳尺餘むすび下げ、かけ聲にてやつこをふり候へば、皆々目を付候由江戸よりも申來候由之事。 〔享保年間記〕