金澤に於ける遊女が、寛永中より禁止せられたることは前に之を言へる如くなるが、略之と同時に能美郡串茶屋村に遊女を生じたりき。この地は北陸本道に在りて、小松の南方一里の所とし、その一里塚の側に府中屋と稱する茶店ありて數人の婦女を置き、旅客に接待せしめたるに起る。後利常の菟裘を小松に營むに及び、野外に放鷹し又は那谷寺に詣拜の途次往々こゝに憩ふことありしが、彼等が給仕の任に當りしより、終には公許を得たる遊女の如くになり、尋いで浪士木下某もその附近に同一の營業を初むといへり。されど異本微妙公夜話に、『遊女僅七八人ならでは居不申。』といひ、小松の人二口某の著なる螢の光には、『串茶屋の濫觴詳かならず、昔は假初にかけし茶屋なりと聞傳ふ。』といへるが如く、固より宿場女郎の類たりしに過ぎず。且つその地支藩大聖寺領に屬せりといへども、當時加賀藩内には一も公許の遊里あらざりしが故に、小松附近は言ふまでもなく、後には金澤よりもこゝに赴きて遊興するものあるに至りたりき。蓋し金澤に於いても亦隱賣女の類ありしといへども、その取締甚だ嚴なりしなり。舊記に、元祿三年十月十日より十二日まで寳圓寺に於いて故利常の三十三回忌法要を營みし後、十八日先に禁牢に處せられたる遊女十九人を能登の奧郡に配流し、その中しの・さよ・きん・すま・あかし・七・しき・某の八人は外浦に、三彌・市彌・れん・久女・つね・やつ・きよ・わく・たも・きん・けんの十一人は内浦に置きたることを載せたるによりて考ふべし。 當時衆道の弊風亦熾に流行せるを見る。綱紀襲封の初に當り、御坊主に鷹巣松雲といふ者ありしが、兒小姓澤田五郎八に執心なりしを以て、河田市十郎を介してその意を通ぜしめしも、五郎八之に應ぜざりしかば、松雲はこれを市十郎の力を盡くしゝこと足らざるに依るとなし、却りて市十郎が五郎八と密通せりとの虚傳を流布せしめき。市十郎乃ち大に怒り、正保四年自ら割腹して半死の状となり、その理由を質す者あるを待ちて實情を侯に具申せんことを請へりとのこと、詳かに三壺記に載せらるゝが如し。その他明暦元年には、御異風(オイフウ)の士中島九郎兵衞が、木村甚左衞門の子息に對する衆道のことによりて近藤傳吉と鬪爭し、爲に九郎兵衞は即死し、傳吉は負傷したるのみなりしが後に能登島に謫せられたることあり。延寳三年正月には、小將組の士宮井武兵衞及びその弟甚助等が、馬廻組菊田長右衞門の子息忠右衞門の弟に對する衆道によりて忠右衞門と相撃ち、その結果忠右衞門は即死し、武兵衞も亦家に歸りたる後に命を損し、甚助は自刄したりき。この事件の内容は明らかならざるも、幾くもなく山田又太郎の子息六郎兵衞は、先の鬪爭が己に原因したる事實を藩吏に自首して屠腹したりといへば、恐らくは六郎兵衞は武兵衞の競爭者なりしが、忠右衞門がその弟を六郎兵衞に許したるが爲武兵衞の憎惡する所となり、遂にこの慘事を惹起するに至りしものゝ如し。次いで延寳五年、馬廻組柴田柄漏の子息孫之丞も亦衆道のことにより、その家に於いて銀尾長右衞門を殺害せしを以て、柄漏は自裁を命ぜられ、孫之丞は刎首となり、その連累たりし本多安房守の臣蜂岡覺之丞も亦切腹し、吉田孫助は閉門に處せられき。以上はその結果の重大なりし爲記録に傳へらるゝ所なるも、凡そ此の如き類にして隱微の間に行はれしものゝ極めて多かりしは推察に餘ありといふべきなり。 同年六月十一日(正保四年)に神田(本郷ニ同ジ)の御屋敷へ、江戸薩摩小左衞門を被召寄、あやつりを被仰付。(中略)。あやつりも過、御客も御歸有て、御子小姓の内河田市十郎自害して罷在由御聽に達す。いか成子細ぞや、無心元由御意被成所に、狂氣と相見え申旨申上る。利常公御思案被成、狂氣にてはよもあらじ。前田權之助參て委細承りて參れと被仰出。權之助畏て河田市十郎小屋へ參る所に、市十郎いまだ存命也。御意の趣被申渡處に、市十郎臥ながら、扨々難有御意哉と手を合權之助を拜み、一々物語をぞ致しける。御茶堂鷹栖松雲事、御存の通り御前躰宜ければ、子小姓共一所に相詰、何茂無隔心咄申所に、餘り寵恩にほこつて澤田五郎八に執心の儀止がたく、我等に中をあつかへと偏に頼申に付、無是非私五郎八に内談致し候處、五郎八申けるは我等御奉公に被召出、江戸へ被召出に付父誓紙を申付けり。命の用にも事により立べし。御法度の儀も品により傍輩のために破るべし。衆道の事はかりそめにも破る事なかれ。其以破らば生々世々不孝たるべしと申渡す。一命の儀用に立其此儀は御免あれと云により、則松雲に申聞せ、思ひ止れと申置所に、松雲不機嫌にて打過、何とやらん手前にうと〱敷仕に付、たわけ者と存候所に、己が事を脇へなし、市十郎こそ五郎八と密通する由松雲人に語りなし、仲間の面々も不屆とや思はれけん、何茂我等に疎隔致しけり。又返り忠の者有て、推量の通に私へ爲知候者御座候。あの坊主首をはね申事はいと安し、女同事の者を手に懸てはよしなし、所詮言上せんにはしかじと存候へ共、命をかばひ言上せんもよしなし。私も少しは御法度背ける所も有。所詮身を捨御尋の時申譯致さんと、態々半死に成て待居たり。是こそ松雲が度々の手紙にて御座候とて、權之助へ相渡す。權之助罷歸て言上有しに、殊外御氣色替り、其坊主め先打殺せと御意被成、長谷川庄太夫承つて松雲方へ行、御意にて有ぞ覺悟致せと申ければ、手を合免し給へと申所を只一討に打伏けり。 〔三壺記〕