綱紀の時に至り風俗奢侈に赴き、生活の程度自ら向上したると共に、物價隨つて騰貴したるを以て、藩臣等多くは窮乏に陷り、武士としての品位を維持し能はざるものすらあり。佐々主殿の如きはその尤なるものなりき。主殿は馬廻組の士にして祿千石の多きを受けたりといへども、負債山積せしかば、組頭はその中七百石を割きて償却の途を講じ、殘餘の三百石を以て家政を維持すべきことを命じたりしが、固より之を實行して明らかに收支を示すこと能はず。赤貧の極その邸宅破れて、傘を用ふるにあらざれば雨を凌ぐべからざるに至れり。既にして主殿の負債は銀二百貫目に達したりしを以て、延寳五年彼は藩の貸銀を請はんとするの意を組頭に告げしも、組頭は主殿が負債を生じたる正當の理由を認むる能はずとして之を許さゞりしかば、主殿は直接に願書を横目に提出するの亂階を敢へてしたるのみならず、組頭の召喚を受くるも之に應ぜざる等の非行ありき。因りて翌六年九月廿六日藩は主殿を村井藤十郎の家に、嫡子孫助を前田萬之助の家に、次男左平次を加藤圖書(後前田虎之助)の家に、三男平五郎を葛卷十右衞門の家に錮し、十月十日四人に切腹を命ぜり。蓋し綱紀は、諸士中家政の最も裘亂したる者を嚴罰し、以て全藩を戒飭せんとしたるなり。後藩その資財を歿收するが爲主殿の家に就きて檢せしに、彼の食祿に相當する武器馬具を貯へ、且つ非常の事變に備ふる軍用金を鎧櫃の中に藏したるを見しかば、武人の意氣尚消磨せざりし證として世の賞揚する所となれり。 延寳年中佐々主殿千石の士なりしが、莫大の借銀にて屋上みな朽やぶれつれども、是を修覆すべき金銀なく、雨天には間(マ)の内にからかさをさしゐたるやから故、松雲(綱紀)公、其放埒をなし勝手をとり失ふをいからせ給ひ、村井藤十郎宅にて切腹被仰付なり。依て死後家財を改むるに、千石あたりの武具美々敷揃へ、且其具足櫃の内に金子五拾兩を收め、其外家士の着甲にも各二三兩宛金子を差添置たるよし。是等貧には及ぶといへども、士道を守る志感ずべし。 〔下學老談〕