太郎三郎は創痍を受くること二ヶ所なりしが、二日の夜に至りて死せり。藩の老臣乃ち議して、四日九十郎を組頭の家に移し、九日更に竹田宇右衞門の家に錮せしが、その擧止應對從容自若たりしかば、見る者皆感ぜざるはなかりき。後二十八日に至り、藩吏明日を以て死を賜ふとの命を傳へしに、九十郎は敢へて驚くの色なく、謹みて旨を諒せりと答へ、夜に入りて訣別の意を表せんが爲酒肴を調へんことを宇右衞門に請ひ、談笑寅の刻に至りて寢に就けり。駿臺雜話はこの間に於ける九十郎の行動を述べて、『さて主人にくはしく謝辭を述べ、此程附居たる家人へもそれ〲にねんごろにいとま乞して、さていひけるは、面々へ名殘もおしく候へば、こよひはあくまでも語りたく候へども、あす切腹の時ねむたく候てはいかゞと存候へば、先へふせり候べし。面々は是にてゆる〱と酒すゝめられ候へとて、奧へ入て高鼾してねむるを聞て、跡に居たりし人々感じあひけるとぞ。』といへるは、當時鳩巣が金澤に在りて親しく聞けるまゝを叙したるなり。