是より先、九十郎の父三丞は藩命を帶びて京師に赴きしが、直に轉じて江戸に祗役せり。後この事の起るに及び、鳩巣は書を三丞に與へて、九十郎にして假令死を賜はることありとも、彼は既に青年の氣象を具備するを以て、その動作必ず怯懦なるものなかるべし。請ふ心を勞すること勿れと慰めたりき。三丞この書を人に示して曰く、鳩巣の我に告ぐる所實に此の如し。然れども幼兒に灸を點ぜんとするとき、初は慰撫せられて畏怖の色を示さゞるも、火を執りてこれに對ずる時は忽ち涕泣するを常とす。吾が兒尚年少、その自刄の状果して如何なりしかを聞きたる後にあらずんば、決して心を安んずること能はざるなりと。鳩巣之を評して、この父なくばこの子あらじといへり。三丞の妻も亦烈婦にして、九十郎が組頭の家に錮せられんとするに際し、別盃を酌みて門外に送り、一滴の暗涙をだに浮ぶることなかりしとは彌四郎の書翰中に記する所なり。されば家人を擧げて皆豪快、眞に藩の上下を發奮せしむるに足るものありき。蓋し元祿十五年淺野侯の遺臣大石良雄等、吉良義央を刺しで舊君の怨を晴らしゝが、この時三丞は江戸に在りしが故に、その顚末を記して在藩の鳩巣に報ぜしに、鳩巣は之を義擧なりとし、良雄以下四十七士の傳を著せり。赤穗義人録といふもの是にして翌十六年に成り、藩士の間に傳寫せられて氣節を尚ぶの風を鼓舞せしこと少からず。三丞の一族も亦之によりて感化せられたる所多かりしを想ふべきなり。九十郎が鳩巣の豫言を謬らしめず、死に臨みて凜然たりし状は亦詳かに青地彌四郎の書信によりて傳へらる。