一般士人の窮乏に對しては、藩は貸銀の制を布きて救濟の途を講じたりしこと、別に之を言へるが如く、而してその方法宜しきに適ひたるを以て、未だ甚だしく藩財政の破綻を見るに至らざりき。然りといへども、綱紀が學問を好み、美術を愛し、鴻儒良工を聘し、若しくは珍籍奇玩を蒐集するが爲、巨資を費すを吝まざりしことは、その事蹟の極めて美なるに反し、決して府庫を充實せしむべき所以にはあらず。殊に元祿十五年將軍綱吉が綱紀の本郷邸に臨むに當りて、その費す所實に莫大なりしかば、藩は新たに巨額の負債を生ぜざるを得ざりき。是を以て藩は豫め江戸の商人に約し、新殿造營に要する木材等の代償を年賦償還とすべきことに定めたりといへども、後幾くもなく彼等の中に一時仕拂を切望するものを生じ、幕吏に請託し、綱紀に告げてその賠償を速かならしめんとせり。綱紀之を可かず、自ら老中等に會見して曰く、藩にして若し強ひて命に應ぜざるべからずとせば、勢ひこれを庶民に賦課するか、或は士人の食祿を借らざるを得ずといへども、かくの如きは我が祖宗の決して爲さゞりし所なるを以て、我は家法に背戻せんよりは、寧ろ封土を返還するの勝れるを思ふのみと。老中等乃ち如何ともする能はざりき。是に於いて綱紀は、幕府に告げて大に儉約を勵行し、幕吏に對する進献・諸家の贈遺等一切之を停廢せしかば、十數年を經たる後略收支の均衡を得るに至れり。されば綱紀の將に退隱せんとする頃に在りては、海内侯伯の財政皆窮乏を極め、將軍吉宗の節制を以てしても、尚享保六年凶歉の後旗下の士に俸祿三分一を給し得るに止りしが、獨加賀藩のみ新たに賢良を招聘し、能幹に俸を増すこと、毫も曩日に異なる所なかりしに、翌七年將軍は室鳩巣を介し、綱紀に就きてその政策を問はしむるに至れり。鳩巣が綱紀に謁見せしときの事情は、鳩巣の門下たりし藩士青地藏人齊賢がその著兼山麗澤秘策に記せるによりて知るべし。 元祿十五年御成以後、別而御用脚御差つかへに付、御勘略之儀被仰出、諸事御省略之處、年寄中并會所御役人共より万端嚴重勘辨之儀及示談候へども、御拂方等必至とつかへ申候。此上は、江戸御扶持方の割を減じ申外無御座候よし相伺(綱紀)候所、年寄共のくせにて良(ヤ)もいたし候へば御扶持方減少且又御かりがねと申候。輕き者ども江戸へ相諸候得者勝手の潤色にも成申と存候得者、同じ御奉公も格別進み申候。進み候て勤申と、いかゞ仕勤候とは、各別譯違申儀に候由度々御意(綱紀)に御座候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話追加〕 ○ 先生(鴻巣)御宅え今朝御見(齊賢)廻申上候處、今度之一卷委細被仰聞、有増覺申趣左之通御座候。 去る廿五日(享保七年五月)有馬兵庫頭殿於御城御申聞侯は、御自分(鳩巣)存知之通、近年以來御臺所入り少く、御用も手痞へ申上、去秋御領過分之損亡に付、御藏米を以御切米等被下候儀も成兼申躰に候。諸侯之家之仕置等方々御聞合被遊候庭、家中跡目或は半分家督申付候も有之候。或は加増・新知之分は指除、代々取來候知行迄申付候も有之候。或は家督之節知行は不申付族も有之候。只今公儀之御樣子にては、御加増・新知可被下樣も無之候。常祿さへ差痞申族ニ候故、此通にては末々に罷成御藏入拂底に及可申候。ヶ樣にては埒明不申儀にて候。加賀守(綱紀)殿事は大國と申、其上只今之年來(トシゴロ)に候へども、終に家督等に相違無之躰に候。然所加増・新知之類、不絶そこ〱に被申付候樣子に候。是は定而何とぞ心當の圖り考等之有之儀に而、數十年以來之格不相替儀と、上(將軍)にも思召候。御手前被罷越、加賀守殿の料簡之趣被承候而可被申上候。則御内意に付申聞候旨御申候。先生被仰上候は、委細奉畏候。此等之趣以紙面は難申達奉存候。取次を以申述候儀は難成筋に御座候。直に相尋候樣に可仕哉と奉存候旨被仰達候處、其儀は相伺可申旨に而、暫間有之被罷出、上意には、成程直に承候而垣然儀に候旨被仰出候。依之翌日(二十六日)御屋形へ御出被成、佐々木左兵衞を以て被(綱紀へ)仰上候趣は、則先書に申上候通に御座候。 〔兼山麗澤秘策〕