綱紀初め乞丐の徒を救濟せんとの志あり。寛文七年金澤の淺野川・田井・小立野・野町・寺町・宮腰諸街道及び石川郡松在町・能美郡小松町に人を派し、是等を發見するときは所屬村名を質し、十村に交付して使役せしめ、若し不具者なるときはその親族をして保護に當らしめ、若しまた他領民たり或は町方の者たるときは、その旨を記して提出すべきを命じたりき。この施設は、素より市街地に於ける乞丐を一掃せんとの趣旨に出でたるなりといへども、その他領民たり或は町方の者たる場合に在りて如何に之を處置すべきかに就きては、何等具體的方法とてはあらざりしが如し。然るに同九年夏秋の交暴風淫雨屢至り、領内三州の地河水暴溢して五萬八千石の田を損じ、死者十人を出すの慘状を呈し、隨つて登穀少くして乞丐となるもの甚だ多かりしかば、綱紀は十月十二日より十九日に至る間金澤玉泉寺及び本願寺末寺に於いて施粥を行はしめ、又各郡より十村手代を招集して農村より入り來る飢民の數を調査せしめき。次いで翌十年綱紀は、郊外なる野田村に幅十一間長二百四十間の竹圍を設けしめ、算用場奉行一人・町奉行一人は晝夜交代して臨み、小將横目・徒横目・郡奉行等これに副ひ、金澤町年寄・肝煎及び封内十村の總員を召集し、足輕以下多數を驅使して米粥を窮民に給すること五月二十八日に初りて六月十五日に至れり。その粥を煮る所の大釜は三十個を用ひ、第一日に要したる白米四十二石なりき。 藩は之と同時に彼等の戸籍と困窮の事情とを調査し、自ら業に就きて生を營み得べきものは十村・町年寄等に命じて保護を加へしめたるも、否らざるものに在りては藩自ら之を收容するの設備を要したりしを以て、更に命じて城南笠舞村に數棟の廠舍を造らしめ、六月二十二日その竣成するに及びて先づ千七百五十三人を收容せり。これ藩末に至るまで非人小屋と稱せられて、他藩に多く例を見ざる救貧事業の濫觴なりとす。