この非人小屋の主任吏は算用場奉行及び町奉行にして、非人小屋裁許と稱する與力數人實務を掌り、本道及び外科の醫師を置き、足輕・小者等數十人之に屬し、又收容老中より選ばれて病者の看護・火災の防備等に當るものありき。非人小屋の構造は、今之を詳かにするを得ずといへども、富田景周に從へば、『此造り樣全く廐舍に異ならず、是松雲(綱紀)公深圖ありてのことゝいふ。』といへば、工夫考案に長けたる綱紀は有事の日に當りて之を廐舍として使用すべき目的を有したるものゝ如し。小屋の數凡べて四十五棟にして、地積二町歩に及び、食物として男一日米三合・女二合、外に鹽一勺五才・味噌五才を給し、病者には特に男米五合・女二合五勺以上とし、兒童には年齡によりて差等あり。而して薪材一人二百目宛と定むれども、冬期に至りては五十目を増し、衣服は季節に隨ひ太布帷子一・袷一・古手綿入一を給與せり。殊に藩外より來れる者に對してはその待遇最も厚く、食料は凡べて病者に准じ、疾ある者には醫療を加へしめ、治癒の後衣服と旅費とを與へ、人を附してこれを領境に送り以て舊里に歸らしめ、若し不幸にして收容中に死する時は、その郷貫の明らかなるものは之を通知し、又僧侶をして歳時に讀經供養せしめき。收容者は男女各その室を異にし、狂暴の徒は檻房に拘束し、非擧ある者は裁許之を審判したる後、輕きは直にこれを罰し重きは公事場に移送せり。收容者の中業務に堪ふるものは、一定の職業を與へて從事せしめしが、その種類に藁繩・寸莎・麻かせ・草履製造等ありき。元來この收容所は、非人小屋と稱せらるといへども、寧ろ貧民小屋といふを適當とし、特種の技能を有するもその産を治むる能はざるが爲、乞丐に墮落する恐あるものをも收容したりしなり。就中その最も有名なりしを刀工長右衞門清光とし、寛文饑饉の後に收容せられて延寳に及び、次いで一たび獨立せしが、元祿元年の頃又小屋に入り、その刀劍製作のことに從へり。凡そ非人小屋に收容せらるゝには、町奉行又は郡奉行の申請に基づくを普通とすといへども、又時に自ら小屋に至りて之を請ふものなきにあらず。小屋附足輕も亦日々市街を巡行し、飢民・棄兒等あるときはこれを收容せり。又收容者にして、自ら獨立生活し得べき計畫を立てたる者あるときは、若干の金穀を與へて退去するを許され、或は親戚故舊の憑らしむべきものあれば、收容者を交付して保護扶養すべきを命じ、奴碑として使役せんことを乞ふものある時は、亦之を與ふるを例とせり。