大槻朝元に關する事件は加賀藩に於ける一大疑獄にして、世に大槻騷動若しくは加賀騷動の名を以て喧傳せらるゝものなりといへども、その眞相の如何なりしは殆ど得て捕捉すること難し。葢しこの時藩初を距ること已に一百五十年に及び、利家時代に於いて戰場の勇士たり又は帷幄の謀臣たりしが爲に、大祿を食み政治に參與するに至りたるものも、その子孫は必ずしも祖先の如く勇武あり智略あるにあらず。且つ先侯綱紀不世出の才を以て三州に治を施くこと多年に亙り、文華燦然として興りたりといへども、その弊の赴く所は簡朴を忘れて煩瑣に傾き、財政上爲に缺陷を生じたる跡なしとすべからず。是を以て藩侯吉徳の時最も焦眉の急を要したりしは、世襲の大身巨室以外に財政整理の任に堪ふべき材能を擧用するにありしが、かゝる際に當り直に侯の注目を惹きたるは、その側近に侍する大槻朝元なりしなり。朝元は初め龍陽の寵を得たるより身を起したりといはれ、後政務の諮詢に與るに及び、節用富國の策を献じ、法規の改變を圖り、その施設常に侯の意に適したりしかば、連りに重用せられて異數の出世を爲し、遂には藩の庶政一として彼の意によつて決せざるなきに至りたりき。是に於いて、朝元の拔擢登庸せられたるが爲に樞機に容喙するを得ざるに至りしを恨める老臣と、朝元が前田氏祖宗の典範を動搖せしめたるを喜ばざる保守主義の徒とは、相應じて朝元を要路より除かんと欲し、或は世子宗辰に訴ふるあり、或は老臣本多安房守政昌に密告するありて、百方これが爲に奔走努力したりき。然るに吉徳の尚世に在りし間は亦如何ともすること能はざりしが、一たびその棺を葢ふに及び、反大槻黨は忽ち擡頭して新侯を擁し、遂に朝元を排擠するの目的を達したりといへども、實は正々堂々としてこれを罰すべき理由を有せしにはあらず。故を以て藩の當局は、纔かに前侯の病中朝元の處置が適當ならざりしとの空漠なる宣告を試み、朝元の實證を擧げて抗辯したるに拘らず、強ひて君意に託して屈服せしめたりしなり。今日にして之を論ずれば、朝元が微賤に出身し、世情に通曉して理財の才ありしが爲、不正の利を得て私福を張りしことはこれあるべしとするも、坊間に傳へらるゝ如く、眞如院が人をして鑵子に毒を置き、以て藩侯重凞を害せしめんとせりといはるゝことも、朝元が眞如院に與へたる艷書を發見せられたりといはるゝことも、皆朝元の既に五箇山に流謫せられたる後に起れる事件にして、朝元斷罪の資料となりしにはあらず。朝元ならずとも誰か能く當時の判決に服し得んや。されば朝元の處罰は、舊族の老臣がその喪失したる勢力を回復せんとしたる運動の發露にして、眞如院に好感を有せざりし後宮婦人の一團亦之に乘じて活躍したる結果なりしが如く、而して朝元が極力之に抵抗して潔白を證明せんとせざりしは、彼も亦顧みて疚しき非行ありしによる。たゞ坊間に藩侯吉徳に危害を加へたりと傳ふる如きは、全然後世好事者の捏造に外ならざるなり。