大槻朝元の祖先は、會津の城主芦名盛隆の麾下に屬したる安達郡四本松の城主四本松右馬頭の臣にして、大槻の城主たりし伊藤備前なりといへり。天正の末年芦名氏の伊達氏と戰ひて敗るゝや、備前も亦難を避けたりしが、その長子は佐竹氏に仕へ、次子は相馬氏に屬し、季は則ち越前に來りて醫を業とし名を大槻玄徹と稱す。玄徹後に加賀に移り、而して朝元はその後裔なりとせらる。然りといへども、こは大槻氏由緒帳の主張する所にして、當代に於ける諸家の系圖に信を措き難きものゝ多きは論なく、殊に微賤に起りしものに在りては疑を容るべき餘地最も多しとすべし。 朝元の祖父長左衞門は、寛永中前田利常に仕へて御鐵炮者となりし人にして、御鐵炮者とは放銃の事を職とする足輕なり。長左衞門に三子あり。長を七左衞門とし、次を六郎右衞門とし、季を長兵衞とす。而して七左衞門と六郎右衞門は祿せられて持弓足輕となり、長兵衞は持筒足輕に任ぜらる。七左衞門、藩士別所三平の臣上田氏の女を娶り、三男一女を擧ぐ。長子家を襲ぎ、亦持弓足輕となりて七郎左衞門と稱せしが、後累進して組外組(クミハヅレ)の士分に列し、二百八十石を食めり。次子は長左衞門といひ、叔父六郎右衞門に養はれ、持筒足輕より鷹方御徒(オカチ)となり、定番御徒小頭並に進み、知行百石を賜ふ。この長左衞門に三男ありしが、長を長太夫と稱し、御坊主頭より登庸せられて馬廻組の士に列し、四百五十石を祿せられ、次を長次郎といひ、新番組に徴せられて百三十石を食み、季を七之助といへり。而して長左衞門の妹は持筒足輕園田理左衞門に嫁したりしが、理左衞門も亦榮遠して定番御徒小頭並となり、百石を受けたりき。問題の人朝元は、上に言へる七左衞門の第三子にして、七郎左衞門及び長左衞門の弟なり。 傳へていふ。大槻朝元は元祿十六年正月元日を以て生まれ、幼にして金澤小立野波着寺に寓せり。葢し彼は季子なりしを以て僧たらしめんとせられしが如し。後叔父長兵衞はその女子に朝元を迎へて壻養子たらしめき。之を以て長兵衞の室中村氏(光凉院)は朝元の養母たり。享保元年七月藩侯綱紀の時、初めて召されて世子吉徳の御居間坊主となり名を朝元と稱し、二人扶持金二兩を賜ふ。これ御坊主を職とするものゝ常俸なり。同八年五月綱紀退隱して吉徳嗣ぐ。是に至りて朝元は祿を増して三人扶持切米十俵となり、九年十一月束髮を命ぜらる。所謂束髮の御坊主なり。次いで十一年正月二十俵を加賜せられ、別に衣服料銀二貫五百目を賜ひ、七月切米五十俵を賜ひて定番御徒並となり、奧小將御番頭支配に屬す。朝元の榮進が如何に速かなりしかを見るべし。朝元定番御徒並となるに及びて初めて士人に列し、その服裝を改め、通稱を傳藏といひ朝元を諱とせり。