延享二年六月吉徳卒して世子宗辰嗣ぎしが、八月三日朝元の藩侯近侍の職を罷めて表向に勤務せしめ、九月七日には村田半助金澤に來著して、朝元が曩に管掌せる御居間先土藏の檢閲を開始せり。葢し朝元反對黨の漸く擡頭せる結果にして、半助が江戸に報告せる書中に、該土藏の出納は朝元外一人專ら之に當り、近習頭をして參與せしむるを許さゞりしといひしが如きは、大に朝元に對する嫌疑を深からしめたる所なるべく、翌三年吉徳の一周忌を終へたる後、何等の訊問を行ふことなくして、朝元が先侯の病中に於いて處置宜しきを得ざりしとの理由を以て、七月二日本多安房守政昌の邸に召喚し、之に蟄居を命じたりき。これ政昌は朝元の屬する人持組頭たりしを以てなり。 右御土藏御用は近年大形内藏允一人にて取唀、出し入等之儀は井口閑庭等仕由及承候に付、今日於御城閑庭え内々承候處、御當用之品は大形内藏允より被指上候躰に御座候。右御土藏御用は遠田勘右衞門・内藏允取唀に而、御近習頭中には立合申儀唯今迄無御座候由、閑庭申聞候。(前後略) 九月九日(延享二年)宇野武兵衞 村田半助 青木新兵衞樣 西尾内膳樣 〔村田半助御次御用諸事留帳〕 ○ 大槻内藏允儀、安房守(本田政昌)え相招、來月御用番大和守(横山貴林)申談、御横目澤田忠太夫同席にて左之通右同日申渡(延享三年七月二日)。 御手前儀、去年護國院(吉徳)樣御病中之仕方、數年之忘御厚恩、不屆至極被思召候。依之急度蟄居被仰付候旨被仰出候。 右申渡候席にて左之通安房演述。 右之通被仰出事に候へば、一通之蟄居と被存候而は御氣然(前)にも應申間敷候間、万端被相愼、閉門被相心得尤ニ候。此段者尚更爲心得申達候。 〔袖裏雜記〕 前田直躬宛大槻朝元書翰男爵前田直行氏藏 前田直躬宛大槻朝元書翰