朝元はこの意外なる命に接して大に驚き、その判決の誤れる所以を述べて曰く、余は先侯の病に侍して晝夜暫くもその側を離るゝことなく、不破丹下と共に自ら侯の便器をすら執れり。當時候の生母預玄院は使を遣はし、余に面して侯の病状を聞かんと欲したりしも、余は側近を去るを好まざりしを以て遂に使者を見るの暇を得ざりき。余の心身を勞したること之を以て知るべし。然るに今は則ち余の處置の可ならざりしを理由として嚴罰に附せらる。寃枉之より甚だしきはなし。思ふに今侯、何人かの讒を信じて此の命を下し給ひしなるべく、余は遂に之に服する能はざるなり。願はくは卿余の爲にこれを侯に告げよと。政昌乃ち朝元を諭して曰く、この事眞に侯の意中より出でしものにして、他の言を過信せしが如きは決してこれあることなし。汝若し之に從はずんば、更に藩侯の命に背くの罪を重ぬるものにあらずや。されば一たび之に服し、汝の言はんと欲する所は別に書して之を提出して可なりと。朝元沈思良久しく、これ亦先侯に奉ずる所以の一なりとして命を奉ぜり。 大槻内藏允儀、今日於安房宅、來月御用番大和守申談、御横目澤田忠太夫同席に而被仰出之趣、別紙之通安房守申渡候處、蟄居被仰付段者奉畏候。大和守・安房守迄申度旨に而今般之被仰出、護國院(吉徳)樣御病中之仕形、忘御厚恩不屆至極之仕合与御座候段、被仰出之儀には御座候へども、私儀段々結構に御取立之儀に御座候へば、御病中は尚更御氣然(前)に應じ申樣奉心得候而、私并不破丹下等四人御側をはなれ不申罷在、御大便等之御またじ(處置)迄も仕候。御病中御近邊えは、右之者共之外は三浦左京抔を初罷出不申候。右之存寄故彼是与諸人被存入候處、不顧候而抛身候故奉御看病罷在、萬端御用を承り不奉背御意樣仕候。預玄院樣より御病躰御尋之御使之時分も、私え委細御樣子承候樣御使者へ被仰渡候由に而、私え逢申度旨に候へども、右之趣に而罷出候儀不仕候。其外誰彼私え相尋申度旨面々有之候へども、罷出不申候。御病中之御儀におゐては、右申上候通諸人之存入批判且而貪着不仕、奉應御氣然心底迄に御座候。於此儀は何分に被仰出候ても一々申分御座候。畢竟右之雜説を被聞召候而之儀与奉存候間、急度御吟味被仰付被下候樣仕度候。常々御用方之儀は、不應御意儀も不奉顧再三申上候。右之通申上、情強(シヤウゴハ)成儀申上候とて頭を御たゝき被遊候儀も有之候。御用之事におゐては、思召に不應儀不顧申上候。私自分之事におゐては、如何樣之儀に而も奉應御意候樣に仕候。近年御時節柄に候處、度々之御加増難有ながら何共迷惑至極仕候へども、何角と申上不應御意時者却而如何に奉存候故、是又人口不顧其度々御請仕候。右之存寄に御座候處、今般之被仰出に而は當惑仕候。此座を退不申覺悟に而罷在候間、右存寄之趣遂僉議候樣再往申聞候付、段々申分之通には候へ共、御上雜説抔に而可被仰付樣は無之候。如何樣之趣被聞召候哉、其御樣子は難計儀に候。右申分之通は拙者共承り置申儀に候間、先被仰渡之趣奉畏、急度蟄居可仕旨私共兩人申聞、澤田忠太夫儀も右之趣申聞、早速御請仕可然候。いつ迄申達候ても事濟申儀に而無之旨申聞候得共、覺悟相極罷在儀故、八つざきに被仰付候ても其儀は少も不奉顧候間、遂僉議候樣にと申聞候付、何分に申聞候ても只今彼是与申儀は罷成不申候。奉畏段速に御請申上可然候。蟄居之儀には候得共、右之存寄は紙面に相調、組頭迄追而相達候而も成可申儀候旨申渡候處、紙面指出候儀は如何奉存候。とくと了簡仕候へば、ヶ樣に被仰出候も、護國院樣之御儀奉抛身命候而之致方に付而之被仰出に御座候へば、是又御奉公之其一と奉存候間、被仰出之趣何分奉畏旨申聞退出仕候。以上。 七月二日(延享三年)安房守(本多政昌) 大和守(横山貴林) 〔袖裏雜記〕