朝元享保元年新たに藩に仕へしより、寛保三年に至るまで年を經ること三十年にして、祿を増すこと二十一回。賤役御坊主より漸く列位を進めて、藩の門閥たる人持組に登用せられ、旭日昇天の勢を以て威を振ひたりしが、一朝吉徳の捐舘に遇ひて遽然榮枯處を易ふるに至れり。これ朝元が君寵に頼りて自己一身の威福を張るのみを事とし、敢へて根蒂を堅からしむるが爲に黨與を援引することなかりしに因り、偶以て彼が大好の徒にあらざりしを知るべし。されば朝元の彈劾せられたる所以は、主として彼が舊例故格を顧みず、名を君侯の命に假りて我意を擅にし、親近を登庸し、卑賤を拔擢し、殊に榮達に慣れて自ら奢侈驕傲を事とするに拘らず、他を律するに儉約令を以てして、士庶の平和なる生活を脅威したりとするの點に存し、その反對黨たりしものは、朝元の權勢に壓迫せられて政局の中心より遠ざけられたる老臣と、濫に舊慣を改むるを以て許すべからざる罪惡なりと信ずる守舊派となりしなり。是を以て朝元の失脚するや、直に多種多樣の落首は坊間に喧傳せられたりといへども、素より是等落首の作者たるものは、深く朝元の行爲を研究して曲直邪正を判斷したる結果にはあらず。單に世評が彼を奸惡なりとするが故に好惡なるべしと考へたる程度のものに止り、成上り者の覆滅に痛快を感ずる極めて普通なる心理に基づきしものたりしなり。 擬内藏允詠歌 さびしさはそのかひとてもなかりけり仙石町の秋の夕暮 こゝろなき人もおごりをにくみけり身の毛もよだつ秋の夕暮 かんりやくも御爲も今は請付ず屋舖のすみになきの夕ぐれ 外より 見渡せば槻の光りもなかりけり堂形邊のあきのゆふぐれ 出入なき内藏の允まへさびにけり味方も今は秋の夕暮 いわく付 神鳴大槻にむかひて曰くそなたもおちたか 献立 吸物くそをたれ味噌たうふのかすはぢをかき貝 世上の取沙汰をきく酒 小皿今迄の御威光はげます今も御仕置がし鯛か夫はあわんび 取肴何と成ともいわしめ腹は内藏の允けん對馬まだもくへるは大和柹 安房もち米のたかい土佐ぶし 開帳 不行義菩薩の御作何程でも加増をせう觀音但大槻にて作り輕薄佛 寳物六尺の樫木棒古菅笠添て其後の古十徳椶櫚箒ちり取五斗除の借状 金地金泥裏門經雷の取殘し腹不切の臍 刀脇指去方指料銘、波のへら拵、切羽はゞき江戸詰の者を裸にむく祿頭、御儉約で四分一鍔、よくの革ぬり御土藏をすかし鍔目貫、我まゝに知行を鳥甲鞘、家内今はきやうさめ鞘柄絲下緒、御譜代に似こん 右於大月山傳藏院來八月中開帳仕候。以上。 丑七月石川郡堂形村かま武士長元坊 源氏供養 今あひがたき縁に向て、金銀の費をつかひ、ひとつの物見を作り、此上におごりを極む。南無や光る金子で、ゆふれい重々要脚。抑桐のとう(家紋)、掃除の身よりすみやかに、出頭の空に至り、江戸にての夜の事共は、つひに隱せと皆知りぬ。まいなひの空しき者を厭ひては、良い顏の露と見えぬぞかなしき。馬鹿頬さげるものに向ひ、末行ならぬ詮議をなせば、お髭の塵取か追從もよしやたゞ。吉田が加増にあひけるは、切米を減さして欲量をねがふべし。鼻ひる沙汰にあふ事も、因果のめぐる理り、まぬかれがたき道とかや。唯すゑとゞかぬ行跡、どうもすまぬ簾かけて、罰嚴重にあたらぬさきに身をかくし、いつまでか有なん。唯中村の宿にゐて、菩提の道をねがふべし。松風の吹とても、雷の燒跡はいゆる事更になし。出入の絶えずして、品人畜の武士馬鹿は、名聞全盛の心をかけて誠なく、出頭厚恩を、鼻柱のもとに出さん勢ひ、次第におつる我心。不義の噂に大槻の、其魂も今少し、槿の光り頼まれず。朝には嬋娟のかたに懸られ、名も高き司位を、我まゝの内にこめて、樂みさかえを筒亂(ドウラン)にたとふべしとかや。是もかげらふの身成べし。五箇村籠(カゴ)の橋を打渡り、身の在郷をねがふべし。爲しゝ罪障身を恨み、朝元停語を振すてゝつらかきつゝみて後の世を助け給へとうろ〱と、尾羽うちからして、榮耀もすでにをはりぬ。 〔摭事集録〕