然りといへども朝元は全く瑕疵なき人にはあらず。彼が異常の拔擢を得て、漸く榮達するに至るや、人情の弱點として自ら驕奢淫佚に流れ、君寵を頼みて傲岸不遜の擧動あるを免れざりしなり。是を以て前田土佐守直躬の如きは、最も夙く朝元を倒さゞるべからずとせる首唱者の一人なりき。直躬の彼を憎惡せしは、素より彼が微賤より起りて、藩の門閥舊勳を尊敬せざる體度に不快を感ぜしによるなるべしといへども、亦別にこゝに至りし理由なきにあらず。そは直躬の家紋が元來瓜内梅鉢なるに拘らず、享保十九年元旦の登城に際し、藩侯の徽章と同一なるものをその大紋素袍に附せしに、本多政昌が之を非難せしことあり。これ直躬の相先直之は、侯族利政の嫡子にして、萬治二年小松城代を命ぜられしが、寛文元年藩侯綱紀のこの城に臨みしとき、藩侯と同一の家紋を許したることありといへども、爾後これを用ひ得べき範圍は軍裝に限らるゝの例なりしによる。然るに直躬は己の意を貫徹せんが爲、四月中旬藩侯吉徳に請ひて、新たに梅鉢紋章を用ふるの許可を得、武具馬具諸器皆之を附したりしかば、重臣等侯を諫めて前の命を撤回せしめんとせり。侯乃ち之に隨ひ、又直躬に之を廢すべきことを告げたりき。直躬大に喜ばず。從來慣用せる瓜内梅鉢をも廢して、祖先直之の時より以來別に用ひたる釘拔又は三葢松中の一に定めんと欲すとの意を上陳せり。直躬のこの主張は、翌日に至りその過言なりしを悔い、本多政昌によりて侯に謝し、再び瓜内梅鉢を正紋とすと決したりといへども、侯は直躬の擧措を好まず、『土佐守仕形、近頃御安堵難被遊、御氣遣敷候。向後之儀、急度心附相勤候樣に可申含。』[吉徳公の記]との意を老臣に傳へ、尋いで侯の江戸に上るに及びて、親翰を發して直躬の加判たることを免ぜり。 前田直躬畫像男爵前田直行氏藏 前田直躬画像