是に於いて直躬は、この黜陟が朝元の建策によりて行はれたりと考へたるが如く、爾後朝元を憎むこと殊に甚だしきを加ふるに至り、寛保三年世子宗辰に上書して多年の欝屈を散ぜんと欲したりき。その大意に曰く、方今君侯の政を行ふや、これを老臣に諮問することを爲さず、一に朝元の意見を徴して決するを例とし、朝元はこれに應ふるに、時に或は口頭を以てし、時に或は書面により、その實施に當りては私見を以て君命なりと僞ること最も多し。是を以て城狐社鼠の輩皆朝元に諂諛を呈するのみならず、老臣の重任にあるものすら尚公私の事皆朝元に謀り、以て一身一家の安全を希へり。横山大和守貴林の如きは最も甚だしきものに屬す。是を以て我が藩の格式日に頽廢するに至るもの、深憂實に之より大なるはなしと。宗辰乃ち之に對して返翰を與へ、而して直躬は復上申書を上れり。曰く、藩侯に對しては、余他日本多政昌と謀りて苦諫する所あらんと欲す。かの横山貴林は、好んで藩の貸附せる金銀の回收事務に鞅掌して非行最も多く、又與力畑六郎右衞門といふものありて、朝元・貴林二人と相識るを以てその間に往來連絡せり。且つ近習勤仕の輩を選任するが如きは、皆朝元の獨斷に係る。是を以て近時登用せらるゝ所のもの、悉く微賤より出でざるなしと。