翌延享元年世子宗辰金澤に歸りしかば、直躬は金谷殿に至りてこれに謁し、又内申書を上れり。その略にいふ。近時藩侯の江戸より賜はる親翰といふもの、皆その實は親書にあらずして朝元の代筆する所なり。是を以て余輩上書して鄙意を述べんと欲すといへども、到底侯の見聞に達せざるべきを思ひ、自ら抑へて言はず。本多政昌も今は既に朝元に盲從せるを以て、大事を謀るに足らざるに至れりと。 延享二年六月吉徳の卒後僅かに數日にして、直躬は四たび在江戸の宗辰に上書せり。曰く、朝元先侯の病に侍して頗る禮を缺けり。その故は、彼晝夜看護の勞を執らざるべからざるに、卒去の爾三日前なる六月十日の頃より初めて宿直せしに過ぎず。しかのみならず朝元は醫師小宮山了意・小宮山全柳・能勢玄達及び表方の吏井口五郎左衞門・河島吉左衞門・笠間源左衞門等と謀り、故らに侯の病状を輕微なる如く宣傳し、老臣に至るまでその實情を知ること能はざらしめたりと。然れども直躬が這次の上申は、實にその誤解たらざるべからず。何となれば朝元が吉徳の病状を秘したりといふは全く事實にあらずして、その巨細は悉く時人の日記に載せられ、朝元が吉徳に常侍することなかりしといふも、亦朝元自身の辯疏したる所と頗る逕庭あればなり。但し多く江戸に在りて金澤の事情に通曉せざりし宗辰に在りては、直躬の言ふ所に信を措きたるが如く、その襲職以後直躬は再び藩政に與るを得るに至れり。 朝元の失脚するや、世人時事を諷して落首を作るもの多かりしは前に述べたる如くなるが、直躬は後に自ら之を集めて言誑集と題し、卷末に左の文を記せり。是に由りて直躬が如何に朝元を觀察したりしかを見るべし。 閑隙のあまり庫裏反古を改めしに、此一帖出。延享二乙丑年六月十二日護國公御逝去成し比、世上大槻内藏允事によりて敷言を言出す。其比の年寄中等の事まで書盡し、褒貶の事共其時の慰みものなりし故、少しく志ありて書集めぬ。され共其事も空しく成ぬ。内藏允實者御持弓足輕小頭大槻七左衞門三男にて、眞言宗波著寺小草履取にて奉公いたし、出家に可成趣の處、おぢ大槻長兵衞[御持筒足輕]聟養子にいたしぬ。夫より掃除坊主に御召出、朝元と申候[朝元と云名室新助被附候よし、元日に生れたる由にて被附たるとぞ。]護國公御部屋住の節御次坊主加人に參り、夫より御氣然(前)に應じ、御入國後段々御取立の處、御厚恩を忘却いたし我儘を盡し、御年寄らせてより猶更御政事の事をも上を掠て取計、專御廣式向へ取入、不義不行状の事も有之といへ共、上にも聊不被知召事にて、御上をも諸人彼是申合ぬ。延享二年御歸國の比、御道中より御滯、御快氣も被遊たる上にば如何可被仰付旨難計程の御事侍れ共、御逝去ゆへ此世上の雜言も一向に言出しぬ。内藏允人と成鈍にして淫亂大酒、おのれが權を取て、年寄中とひとしき程にも思召たる風躰にて有ぬ。後世内藏允人と成をも不知、同時の人もすくなき時は、色々に云ならし侍らん。予は時を同じくして其事々をもしり侍る故、あら〱書置きぬ。 〔言誑集跋〕