朝元反對黨の他の一人を大小將組の士青地藤太夫と爲す。藤太夫諱は禮幹、學を室鳩巣に受けし人なり。寛保二年禮幹は書を裁して本多政昌に訴へ、近時朝元の驕傲益甚だしく、君寵を憑みて私意を張り、舊例古格を變更したること擧げて數ふべからず。殊に獅子ノ土藏を開きて藩祖以來貯蓄せる軍用金銀を大阪に賣りたる等の事實を列擧してその罪を責め、諸士の榮達を希ふもの皆彼に追從するを以て、爲に風儀を廢頽せしめしこと測るべからずとなし、朝元が初め衆道によりて侯の内寵を得たるより、その連りに登庸せらるゝに至りたる徑路を述べ、藩侯と共に廣式に入りて宿泊したりとの汚行を摘發し、彼が勢力の隆盛なる今は藩侯といへども之を制する能はざるに至りたりといへり。禮幹の言ひし所のもの、悉く眞相に觸れたりや否やを知らずといへども、兎にも角にも頗る具體的に朝元を彈劾したるは、之を直躬の上申に比して有力なりといふべし。次いで三年十月十七日禮幹又政昌に告げて、朝元がその家に出入する町人を明(アキチ)知代官たらしめて帶刀を許したる事實を摘發し、臺閣の諸老臣中藩廷の廓清を期すべきもの獨政昌あるのみといへり。同年十二月禮幹側用人青木新兵衞に書を送りて朝元の惡逆を述べ、新兵衞の周旋によりて吉徳の親閲を煩はさんことを請ふ。その内容殆ど先に政昌に上申せる所と同じく、書末韓愈の詩を引きて、『欲爲聖明除弊事、肯將衰朽惜殘年』と言へり。かくて直躬・禮幹等の運動が漸く藩士の間に傳はるに及び、知るも知らざるも囂々として親元の非行を論難するものを生じ、遂に前に言へる如く、宗辰襲職の初に於いて、深くその罪状を糺すことなく斷乎として朝元非職の命あるに至りしなり。