稗史小説の大槻騷動に於いて、大槻朝元の副主人公たるものは吉徳の側室眞如院なり。されば今少しく之に就きて述べざるべからず。眞如院は、江戸芝神明の社人鏑木内膳の女にして名を貞といひ、吉徳卒去の後に至りて眞如院と號す。又内膳の妹に民といふものありて、同じく吉徳の側室たりしが、一子重凞を生み、享保十六年を以て逝けり。之を心鏡院と爲す。或は曰く、眞如院は芝濱松町二丁目の八百屋の女子なりしを、内膳が假親となりて藩侯に納れしなりと。眞如院に二男三女あり。長を勢之佐利和といひ、次を八十五郎と稱す。而して女總姫は富山侯前田利幸の室となり、楊姫は未だ嫁せず、益姫は早世なり。朝元の五箇山に謫せられたる後、寛延元年六月二十一日眞如院、八十五郎を伴ひて江戸を發す。これ八十五郎が執政村井主膳長堅の嗣子たるべきことを命ぜられし爲にして、七月十一日金澤に入れり。 時に江戸に在りては一疑獄を生ぜり。眞如院の歸國の程に上りたる後、六月二十六日江戸の藩邸廣式のお次女中菊といふ者、晝交替を爲し、臺子の受繼を爲したる際、常例によりて鑵子の湯を試味せしに、その惡臭甚だしく、口中熱して糜爛せんとするが如くなりき。老女森田之を聞き、己も亦口中に含みしに、到底飮むに堪へざりしを以て之を吐き、當直の醫中村正伯を招きて驗せしめしが、正伯は爲に廣式の騷擾を來さんことを恐れ、直に湯を棄て鑵子を破毀し、森田・菊二人に治療を加へたりき。既にして正伯事情を側用人富田次太夫に告げしに、次太夫は之を藩侯重凞に上申せり。重凞亦禍の淨珠院に及ばんことを惧れ、正伯を召して事情を徴し、善後の策に關して講究する所ありき。淨珠院とは先侯宗辰の生母上阪氏なり。 次いで七月四日廣式に能樂を行ひしが、重凞之に臨み、上席の女中をして陪覽せしめ、料理を賜ふことお次女中に及びしに、彼等は皆主任の吏に至りて恩を謝せり。然るにお次女中の臺子を掌るものその席に還りしに、惡臭紛々として鑵子の中より發し、葢を去りて見れば鑛質の浮ぶものありき。乃ち正伯をして檢せしめしに、復前回の如しといへり。後臺子の附近に、楊姫に屬する中老淺尾を見たりと告ぐるものありしかば、老女森田は淺尾を鞫問せしが實を得ざりしを以て、之を側用人富田次太夫・牧彦左衞門及び淨珠院附物頭大場三右衞門に交付せり。次太夫等淺尾に語りて曰く、此の擧恐らくは眞如院の指揮によりて汝の爲しゝ所にあらざるが。汝若し白状せば、その罰せらるゝものは眞如院一人に止るべしといへども、緘默すること此くの如くならば、即ち已むを得ず之を老臣に上申し、老臣は公事場奉行に命じて訊問せしむるに至るべく、禍延きて眞如院が生む所の公子女に及ばんとす。これ豈汝の欲する所ならんやと。淺尾沈思之を久しくして聲を放ちて泣けり。曰く、實に貴職の推測する所の如し。先に眞如院歸國の途に就かんとするに當り、毒藥一封を授けて侯と淨珠院とを害せんことを託せり。當時妾固く之を辭せしに、眞如院大に怒り、既に大事を告ぐ、今に至りて應ぜずんば須く佛神に祈りて汝を惱殺すべしといへり。是を以て妾遂にその請託を容る。眞如院の與へし毒藥は、既に使用すること兩次にして今は盡きたりと。乃ち廣式の長屋を縮所(シマリ)として淺尾を幽せり。事は七月十一日に在り。次いで淺尾を縮駕籠に乘せて金澤に送り、朝元の舊邸に隣れる藩有の長屋に禁錮したりき。その金澤に着せしは十月十八日にして、既に朝元の自殺せる後に屬す。思ふに淺尾をして自白せしめたる事情は上述の如しといへども、侯と淨珠院とを害するが爲なりとせば、置毒の方法甚だしく不適當なるのみならず、正伯がこの事件に對して採りし處置の如きは最も怪しむべし。或は眞如院生む所の利和を相續順位より排除してその弟重靖を推さんとするものゝ、眞如院が江戸を去りたる機に乘じ、淺尾を強要して罪に陷れたるにはあらざるかとも見られざるにあらず。