先に淺尾の犯状を自白するや、急使を金澤に發したりしが、七月十七日藩に達したるを以て、直に眞如院に監視を附し、二十一日金谷殿の廣式續きに縮所を構へて之を幽し、御徒以下數人をして警護せしめき。次いで側用人宮永數馬・長瀬五郎右衞門等交々之を質したりしが、眞如院は毒を淺尾に託せしことなきを主張せり。然るに眞如院の居室を檢して所持の書類を押收するに及び、毒藥に關する證據を發見すること能はざりしも、朝元の書翰を得たるを以て、反覆鞫問して遂に眞如院が朝元と密通せる事實を明らかにし、こゝにこの裁判を終決したりき。而して眞如院と淺尾との間に如何の關係ありたるか。毒を置けるを眞なりとするも、その目的は果して重凞を害してその所生利和を立つるにありしか等の諸問題に對しては、毫も觸るゝ所なくして止めり。 この年八月二日重凞内書を前田直躬に賜ひ、眞如院及びその所生の公子女の處分に關して下問せり。直躬乃ち他の老臣と議し、詳かに案を具して之を上り、眞如院及び淺尾を死に處し、利和・八十五郎を終身謹愼せしめ、總姫は病と稱して富山侯より離婚せしめ、楊姫は將來婚嫁せしむべからずとの意見を述べたりき。 八月二日御近習人持富田次太夫儀御密用有之、江戸發足、同十三日金澤に到着、年寄中并前田土佐守(直躬)え被仰付候趣有之。人々より御請も被上之。毎々越後屋敷え右人々寄合有之。同廿四日次太夫發出、江戸表え立歸。是眞如院一卷御密談と風説云々。 〔政鄰記〕 然るに重凞は直躬等の進言に就きて多く採用する所なく、自ら刑を定めて、眞如院を甚右衞門坂下の今井屋敷に終身禁錮することゝせり。而も當時眞如院の病重くして居を移す能はず、舊の如く金谷殿の廣式縮所に置きしに、寛延二年二月十五日四十三歳を以て死せり。これ長瀬五郎右衞門が諭して縊死せしめしなり。今の尾山神社の北方に、藩政の頃一桐樹を栽ゑて不淨の地なりと傳へしもの、即ち縮所のありし所なりといふ。眞如院の屍體は、小立野日蓮宗經王寺番神堂側の畠に埋瘞す。この地今金澤醫科大學の敷地に屬す。經王寺は後に墓地を轉ぜしが、その中に眞如院妙本日融大姊の石碑あるは、後世の經營にかゝるものなるが如し。 一、眞如院今井屋敷に縮所出來移之申筈之處、頃日煩に付延引之由。翌寛延二年二月十五日朝金谷於縮所死去、夕方經王寺之寺内に葬之。其節御留守居物頭長瀬五郎右衞門并御廣式御用達御歩横目罷越、番神堂横畠中に埋之。 〔政鄰記〕