淺尾は前に言へる如く、朝元邸側の御貸小屋に禁錮せられたりしが、藩は寛延二年十月二十一日毛利總次郎を遣はして窃かに殺害せしめ、武田杢左衞門・牧彦左衞門これを檢屍せり。稗史に淺尾を蛇責の酷刑に處したりといふは、第三世利常の夫人天徳院の侍女に侯の寵を得たるものありしが、元和八年七月天徳院の歿したりしとき、その死因がこの侍女の異味を勸めたるによるとの嫌疑ありしにより、翌九年八月小將(コシヤウ)津田三左衞門に命じて蛇責としたること、三壺記・關屋政春古兵談・菅家見聞集等に見えたれば、恐らくは之と混同したりしものゝ如し。而もこの侍女の蛇責となりしといふも、亦眞にその事ありしにあらず。松梅語園に據れば、侍女が利常の爲に疎ぜられてその家に閑居するや、附近に栗田久右衞門ありて家傳の白蛇散を鬻ぎしが、その原料として田夫の多く蝮を齎し來りしを、坊間侯がかの侍女を蛇責とせんとするたりと傳ふるものあり。侍女の下婢之を聞きて主に告げしかば、侍女は寃罪によりて蛇責に處せらるゝに堪へずとなし、遂に自刄して死せるなりといへり。 天徳院樣御局、常々御前(天徳院)樣へ對し不忠の儀共有之。殊更御不例の内猶不屆成事多かりければ、御夫婦共ににくき次第と思召けるにや、江戸にて將軍家へ上聞に達せられしに、御成敗いか樣共可被仰付旨任上意、山々里々へ被仰渡、蛇を生ながら瓢に入れ曲物に入て持參す。御持筒の者に被仰付請取置事五樽計り集りける。まむし・烏蛇・やまかげなどゝ云毒蛇共第一と取上る。其中に耳有蛇も有、足有もあり、兩頭の蛇も有、二尾の蛇も有之由。其期にのぞんで局を裸になし桶に入、桶のくれに數百の穴をくり、四尺四方計の箱の中へ桶を入、釘にてとぢ、箱の隅に四寸廻計の穴をすぢちがへにこそ明にけれ。元和九年八月下旬の事なるに、ある山陰にひそかに役人に被仰付彼箱を埋み、箱の穴より毒蛇共をとり込、其中へ高岡酒二樽流し入、口を板にて釘付にして、深き土中に其儘埋て歸りけり。天下に上こす人もなき果報いみじき局にて有けれども、戒行つたなき者の寵恩におごり上を犯せし天罰恐れても猶餘り有。 〔三壺記〕 ○ 天徳院樣の御局の女中、容儀宜候故微妙(利常)院被召仕候。夫故御局天徳院樣を疎み、惡敷ものを上げ候故御あたり被遊御逝去と申沙汰に而、微妙院樣事之外御機嫌あしく、御局を御にくみ被遊候。其頃御局之屋敷近所に、粟田久右衞門屋敷有候。家傳之白蛇散調合の爲、山里の者へ申付まむしを多取寄申候處、其時分金澤中の沙汰に、御局を蛇責に被仰付と申あやまり取沙汰有之候を、御局召仕候下女使に遣候時分此沙汰を承り、女心に誠と存、笑止成事に思ひ御局に咄申に付、御局被承、無了簡事に候、蛇責に逢可申事にあらずとして、致自害相果被申候。此儀を世上に而は蛇責に逢与申慣候得共、實は右之通之由生駒内膳、不破覺丞へ語申候。 〔松梅語園〕