吉徳の診療は藩醫池田玄眞・林玄潤・南保玄伯・小宮山了意・中村正伯・佐々伯順・小宮山全柳・能勢玄達、横山貴林の侍醫岩脇碩庵、本多政昌の侍醫原田玄格、町醫小林意仙・奧田宗安之に當り、鍼術は久保壽安之を施しゝが、何等の効を奏せざりしを以て、京都より辻法眼祐安といふものを招くに至りしなり。然るに祐安も亦優秀の手腕を有するものにあらず。殊に京都の岡松良英より、『祐安儀、當地に而も人々存知之醫に而は無御座候。當所政所(二條吉忠室)樣には、先年より御出入候由に御座候へ共、拙者いまだ近付にも成不申候。』との通報あるに及びて、彼の與へたる漢文の診斷書と共に人々の嗤笑を招き、落首の好題目となるに止れり。藩乃ち江戸の大高東元を聘せしに、彼も亦耆婆扁鵲たること能はず、遂に吉徳の卒去を見るに至れり。 かゝる際に於いて人心頗る恟々たるものありて、その死に件ひたる種々の怪談すら行はるゝを免れざりしといへども、吉徳が朝元の陰謀に依りて病を發したりとする如きは、反大槻黨の宣傳にあらずんば過聞たりしなり。 召れし醫の沙汰 醫論とは相違藥味を祐安は阿法眼じやと御手醫者の沙汰 我庵は都三條辻にすむよいかね山と人はいふらん 辻占で都の醫者を呼びぬれど平醫さん(平胃散)ぢやと沙汰を祐安 辻醫者がちんふんかんと書立てゝえしらぬことを人に祐安 平胃散を平愈さんぢやといふあんで御祝ひ取て歸る辻醫者 東醫の沙汰 御脈を大たか(大高)のみにうかゞひて耳とうげん(東元)が廣言をいふ 御病中御沙汰書 一、去年三月三日寳圓寺え御參詣之節御授戒被遊候由、此儀御隱密也。右御參詣之節於御靈堂殊之外御拜禮之御間有之、時刻も移候程にて、寺社奉行初御供之面々も、是はと心付候程に而有之候。其以後横山和(貴林)州御寺え參詣、和尚え、如何之儀に而緩りと被爲入候哉、終に無之御事之由相尋候得ば、御先祖樣方御位牌之御樣子等御尋に而御時刻移候与應對有之、事濟候。 一、當正月元日本郷御上屋敷、表御門之門松片方倒れ、其外御召之御馬七疋迄おち、依之於江戸御先代より無之儀ながら、御馬屋え猿廻し罷出御祈禱相勤、其以後はおち申儀も無之由。其外御歸國御道中にて、御迎鷹四五居(スヱ)おち候由。輕き儀ながら、御著城之日、御居間之口四枚御襖にて候所、不殘倒に立有之。御逝去之以後、ヶ樣成事にも何も心付候由。御病中御召之御馬共何れもいなゝき、別而此度御葬馬強いなゝき、御飼犬御居間先に而毎度長なきいたし候間、此御犬をば外に被遣候由沙汰有之候事。 一、五月十一日之夜四ツの時鐘打不申候故、御城中御番所等何も相仕廻不申見合候内、半時之鐘打候故五ツ半と心得各罷有候處、九ツの時鐘打候故何も相仕廻。依之御番所之御番人中段々聞合共有之候所、西町御門足輕四ツをば打たる由申候。何も鐘承不付趣に相成候へ共、御城中御門々々縮り四ツ時之格に候處、時刻移九ツ迄縮不申に付、三之丸之大御番所面々等之組頭より御番人中相咎、年寄中にも御門縮り遲々に及候段右頭より達有之候得共、四ツ時之鐘不聞付趣に相成候而事濟申候。其以後御城代付中村平八、其夜之御番人中え、其以後安堵のため咄候由に而申演候は、十一日之夜四ツ御時計打候故、其儘鐘つきの者鐘樓えいつもの通り上り候へば、時鐘一面に火に成火氣強、中々かねの際え寄付候事不罷成、鐘樓之廻りの簀圍に火も可移躰、殊之外あやうく見え候故、何も打寄四方の簀を漸にはづし、彼是と仕向四ツ半時之御時計打候故、其時鐘樓え上り候へば、其時は鐘の赤みはさり候へ共火氣強、漸と半の時がねをつき申候。九ツの時がねの節は火氣も去候故、いつもの如くにつき候由。御城中怪異之儀ながら咄申由に候事。 一、五月八日晝八ツ過頃より、申酉の角より雷おとづれ、晩景に及に隨ひ次第に強、夜に入電光甚敷、雷も次第に強く、夜半におよび甚強なり。雷聲常のひゞきと違、辰巳の方に聞えたゞならぬひゞき故、不審に有之。其夜は殊に松雲院(綱紀)樣祥月御忌日の御逮夜之事故、何とやらん心に懸り、心付たる品も有らで夜を明す。其頃は一向上之御違例之沙汰もなく、十一日參會之方ありて、九日御佛詣之儀を尋し所に、少々御不快之沙汰にて御佛詣無之由承る。十五日出仕に表え御出不被成より段々御違例之段相知れ、同月廿八日之夜又雷鳴、此時の雷聲等も八日夜の通にて、殊に其夜は雨もさまで降らず、程なく空晴、其夜の氣色雲なうして雷鳴ると云に似たり。六月朔日の晝も雷一聲おとづれ、是はさまでの事にてなし、無程空も晴る也。八日以來の雷鳴後にぞ思合ける。其外野田山大納言(利家)樣御廟所も鳴動したる由沙汰有れども、是は慥に不聞。雷の半は心付の品も有る故に、爰に是を書記すなり。 一、護國院樣御入國の砌より、時行(ハヤリ)小歌に『五十六ぢやが合點か』と云事をうたひ出せしが、御年五十六にして御逝去也。不思議成儀、是諷妖などゝ云べきもの也。 〔摭事集録〕