前田吉徳は第五世綱紀の嫡男にして、元祿三年八月八日江戸に生まる。母は藩士三田村氏の女預玄院。吉徳は童名を勝次郎といひ、十五年二月十四日勝丸と改め、翌十五日犬千代と稱し、同月二十一日又左衞門と改め、諱を利興といへり。利興の名は、之と同時に支藩富山侯の世子に長門守利興ありしを以て、宗藩の世子が同名を選びしは頗る怪しむべく、或は參議公年表に利起とあるを正しとするが如く考へられざるにあらざるも、而も政鄰記に、『御名乘利興公と御稱之旨、御親(綱紀)翰被遊被進之。御名乘兼而林大學頭殿被考之。反切陵字。』とあるに依りて、利興といひしことの誤ならざるを知るべく、護國公年譜には、『先是富山侯長門守樣稱利興。宗國之家君御同名なれば即時可被諱避之所、聊御沙汰無之可謂失禮也。當時有識之輩深非議之、嗣君無間今之御名(吉治)に改らるゝ故に彌不及其儀歟。』との奇論をさへ述べたり。同月廿八日利興初めて將軍綱吉に謁し、六月九日柳營に於いて首服を加へ、正四位下左近衞權少將兼若狹守に叙任し、偏諱を賜はりて吉治と改む。次いで享保八年五月九日父綱紀致仕せるを以て封を襲ぎ、六月十五日加賀守と改む。同八月十八日左近衞權中將に進み、同九月初めて暇を賜ひしも尚滯府し、九年七月初めて入部せり。元文五年十二月朔日參議に任じ、左中將故の如く、同月十八日諱を吉徳と改む。延享二年六月十二日享年五十六歳にて金澤に卒去し、護國院佛鑑法性と諡し、野田山に葬る。 吉徳夫人は將軍綱吉の養女松姫にして、實は尾張中納言吉通の妹、前名を磯姫といへり。寳永五年十一月十八日入輿し、享保五年九月二十日二十二歳にて逝去す。光現院鏡譽圓清と諡し、江戸小石川傳通院に葬る。