前田宗辰は吉徳の長子にして第七世の藩主なり。享保十年四月二十五日金澤に生まる。母は江戸の浪士村田氏の女淨珠院。宗辰童名を勝丸といひ、元文元年十月初めて江戸に出づ。二年四月六日犬千代と稱し、翌日又左衞門利雄と改む。四月二十八日初めて將軍吉宗に謁し、六月廿八日柳營に於いて首服を加へ、正四位下左近衞權少將兼佐渡守に叙任し、偏諱を賜ひて宗辰と改む。寛保二年九月十六日初めて國に就き、延享二年六月父吉徳卒したるを以て、七月二十五日襲封を命ぜられ、八月四日加賀守に任じ、十月十八日左近衞權中將に進む。三年十二月八日享年二十二歳にて江戸に卒し、十二日發喪、大應院梅關雪峰と諡し、野田山に歸葬せり。 宗辰夫人は會津侯松平正容の女にして常姫といひ、延享元年四月二十二日入輿し、二年十一月晦日逝去す。諡して梅園院心操紹源といひ、江戸下谷廣徳寺に葬る。 前田重凞は吉徳の第二子にして第八世の藩主なり。享保十四年七月二十四日江戸に生まる。母は江戸芝神明の社人鏑木氏の女心鏡院。重凞童名を龜次郎といひ、元文五年十二月二十一日諱を利安と稱す。寛保三年二月十五日初めて將軍吉宗に謁し、十二月二十一日從五位下但馬守に叙任す。延享二年五月六日初めて國に就き、三年十二月十日兄宗辰の嗣子となり、四年正月二十六日襲封を命ぜられ、二月四日加賀守と改め、同月十九日將軍家重の偏諱を賜ひて重凞と改め、正四位下左近衞權少將に進む。次いで寛延元年十二月二十一日左近衞權中將となり、寳暦三年四月八日享年二十五歳にして江戸に卒し、十二日發喪、諡して謙徳院緝甫尚古といひ、野田山に歸葬す。 本多政行宛前田重凞書簡男爵本多政樹氏藏 本多政行宛前田重凞書翰 重凞夫人は高松侯松平頼泰の女長姫なり。寛延元年六月婚約し、未だ入輿せずして重凞の易簀に會す。後に剃髮して鎌倉の英勝寺に入れり。