加賀藩に在りては、第五世前田綱紀の時、士人の生活が既に窮乏に陷りたるに拘らず、府庫の收支は尚常態を失はざりしこと、之を先に述べたるが如し。されば次代吉徳の時、享保十六年七月幕府が金十五萬兩を加賀藩より借らんことを求めたる際にも、容易に之に應ずることを得たるのみならず、十七年十一月幕府はその中七萬兩を返し、殘餘の八萬兩は明年十二月を以て辨濟せんとしたるに、吉徳は老中に就きて、今年全國蝗蟲害を爲し、京都以西凶歉最も甚だしと聞くが故に、今幕府の我に返金せんとする期を延べ、以て救荒の急務を行ふに意なきかと諮りしに、幕府その献議を嘉納せり。されば十八年正月十五日吉徳例によりて登城せしに、將軍吉宗はこれを見て、曩に幕府の賑貸時を失はざるを得しは一に卿の進言宜しきを得たりしに由り、且つ卿の治績ありて令聲四方に飽聞するは余の懌ぶ所なりとて、大に之を推賞せり。その他、享保十六年三月朔城下小立野に大火災ありし時、十七年冬封内の民饑ゑたる時並びに之に賑給し、十八年又窮民に施與せしが如き、皆その財政に多少の餘裕ありしことを證するものといふべし。元文四年安藝侯淺野吉長が加賀藩より金子を借らんことを求めたりし時、吉徳之に應へて、近年財政頗る逼迫して大阪の商人に封する債務を増したるのみならず、前年の難作によりて辨償の資に當つべき米穀の缺乏せる事情を述べたるに拘らず、尚且つ内帑の資を割きて三千兩を貸與したる如きも、亦當時藩の困窮程度が甚だしく深刻ならざりしを察すべきなり。 一昨日貴札致拜見候。未餘寒に御座候得共被成御揃御堅固、目出度珍重に奉存候。然者先頃茂被仰越候御□□之儀、其節御返書ニ茂得御意候通、先年不勝手に付而、大阪表□□及過分、其上去年領國作毛甚不出來に付、大阪爲登米手當茂無之、別而難澁之由追々國元より申越、役人共色々僉議仕趣に御座候。御間柄与申、旁才覺を茂申付、何とぞ□□□□□□□□□□國元へ二三往も申遣、遂僉議候得共、右之首尾に付迚□□□御座候。然共先比□□□にも段々被仰聞、一兩年中には御婚禮も御調被成度思召、旁々無御據趣に奉存候に付、近習之者え爲致僉議候處、當年手廻入用金等を以三千兩計は可相調由申候。乍然少分之儀ニ候得者、□□□□□□□事に而も御座有間敷与存候。其以來御左右延引に罷成申候。時節柄故思召にも不相叶、氣毒に存候。右爲可得其意如此御座候。以上。 二月十日(元文四年)松平加賀守(吉徳) 松安藝守(淺野吉長)樣 〔淺野家文書〕