士人の窮乏は、藩自體の窮乏に先んじて起り、綱紀の時藩が貸銀を行ひてその救濟を計りしこと四回に及びたるは既に之を言へり。吉徳の時享保十年六月朔日、復家中の諸士困窮なるを以て、過去二十五ヶ年を遡り元祿十四年以來の借銀及び買懸銀の有無と金高とを調査して屆出づべきを命じ、希望者に對しては、知行百石に付き銀三百目の割合を以て貸附すべきを告げ、翌十一年に至りて、この貸銀を辨償する外、御納戸銀を借用して返濟を怠れるもの、及び町方より借銀・買懸銀を爲して支拂ふこと能はざるものをして、その義務を果さしむるが爲、知行取は草高千石に付き除知(ヨケチ)五十石の割合を以て之を割き、その定納及び口米を貸銀奉行に納附せしむることゝし、切米取に在りては米五十俵を知行六十石に換算し、扶持方に在りては十人扶持を知行四十五石に換算し、又知行取と同一割合の除知を設定して返濟の資に宛てしめたりき。