宗辰の後を受けたる重凞も亦同じく節儉を勸め、自ら綿衣を用ひて範を示し、延享四年群臣に命じて之に倣はしめき。而もかくの如き消極施設は、經濟界の根本的革新の爲に何等の効を奏せざりしのみならず、時弊滔々として上下に浸染し、藩侯の號令すら頗る徹底せざりしことは、寛延三年十月二十八日重凞の訓諭に、我が藩の士風が日に月に消耗廢頽するを歎き、自暴自棄の徒多く佚遊宴樂を事とし、甚だしきは猥言汚行を憚ることなく、國に法あり家に耻あるを知らざるものあり。此の如きは累世の勳舊たりといふとも尚之を嚴罰に處せざるべからず。而も敢へて之を罰するは余の情に忍びざる所なるを以て、今より後須く舊染を改め、奢侈を除き勤儉質實を旨として、各その世を永くせざるべからずと言へるを以て之を知るべきなり。 重靖次いで封を襲ぎしが、在職六ヶ月に滿たずして易簀し、重教之に代れり。吉徳延享二年を以て卒せしより、重靖の寳暦三年卒去するに至るまで凡そ九ヶ年の間に藩侯の大故に會すること四回、襲職の典を擧ぐること亦四回なり。是によりて藩の財政が更に悲境に陷りしことは言を待たず。その結果遂に銀札を發行せざるべからざるに至れり。 重教が銀札を發行したるは寳暦五年七月に在りき。當時政局に當る老臣は、本多安房守政行・前田駿河守孝昌・長九郎左衞門善連・村井豐後守長堅・横山大膳隆達・奧村主水隆振等なりしが、初め御算用場奉行前田源五左衞門直養の銀札發行を建議せし時、政行・孝昌は不可とせしも善連以下皆之に賛したるを以て、遂に實施せらるゝに至りしなり。然るに不換紙幣の濫發は直にその通用を梗塞せしめしのみならず、贋造行はれ物價亦連りに奔騰せしかば、士庶怨嵯の聲を放つものあり、翌年に至りて暴民の騷擾をさへ惹き起したりき。政行等大に驚き、事情を在江戸の藩侯に訴へて善後を策し、遂に六年七月廿五日その發行通用を停止し、立案者たる直養の職を免ぜり。この際銀札引換の爲に資銀五萬貫目を要し、之に加ふるに三萬貫目を以て負債を償却し、一萬貫目を以て窮民を救恤するの必要ありしに拘らず、府庫毫も蓄積する所なかりしかば、老臣等、相議し、食祿五百石以上の諸士は、此の年以後七ヶ年の間百石に付十石を徴し、以下順次遞減して以て難局を打開するに決せり。この徴發は表面上諸士が自發的に之を献納することゝなしたりしが、後年借知と稱して屢これを強行するの俑を爲したりしなり。これより重教は、前田土佐守直躬に委するに御儉約御用の職を以てし、翌七年更に御勝手方御用を兼ねしめ、以て府庫及び内帑整理の大任に當らしめき。 寳暦六年六月二十六日申渡覺書 御家中之人々勝手甚敷困窮候に付、銀鈔遣被仰付御救被成候はゞ可宜与、遂穿鑿相親候處、御領國には自往古無之儀に付乍御心外、御願之上去年一統御救被仰付候。然處詮議行屆不申、種銀引替等指支諸氏及難儀、殊に御勝手向甚御費に罷成申候。累年御勝手御難澁、地(自)他國之御借銀莫大に成、最早可被成樣も無之大切至極之場に至候。右之趣御家中之面々承知仕候而は、當惑御氣の毒至極に可奉存事に候。如斯之趣に付、責而御償之爲年寄中等申談、知行米之内百石に草高拾石宛之圖り七ヶ年之間指上候趣に致一決候。然者右之趣各にも被致承知、組・支配之人々よりも右割合之通知行米之内指上可然与遂詮議候。割合之趣は別紙之通に候。尤此度指上候知行米は、最前よりの除知之外に候。猶口達申述候事。 知行米之内指上候割合之事 一、五百石より以上百石に草高拾石宛。但十石宛より多指上度人々も有之候ば勝手次第之事。 一、四百九十石より二百石迄草高七石宛。但七石宛より多指上度人々も有之候ば勝手次第の事。 一、百九十石より百十石宛草高五石宛。但五石宛より多指上度人々も有之候ば勝手次第の事。 一、百石以下は不及指上候事。但指上度存寄之者も候者尤指上可申事。 〔政鄰記〕