かくて銀札發行によりて受けたる創痍未だ毫も癒えざりし時に當り、不幸にして前古未曾有の祝融に遇ひ、いやが上にも苦境に陷るに至りたりき。この火災は寳暦九年四月十日城下泉寺町舜昌寺より起りたるものにして、金澤城を初め氏家一萬五百八戸を燒夷し、死者二十六人に及び、穀三十八萬七千三百六十五石を失ひ、その損害の總額幾何に上りしやは得て算すべからず。爲に藩は幕府より金五萬兩を借入れて一時の急を救ひ、次いで十年二月諸士の窮乏を救濟せんと欲し、寳暦六年以降實施したる上納を停止せり。既にして前田直躬は、時局の甚だ困難なるものありしを以て、到底財政整理の重任に當る能はずとなし、御儉約御用兼御勝手御用の職を辭したりしかば、家老三人その後を承け協同局に當らんとせしが、亦相輯睦して事務を處する能はず、遂に何等の實績を擧ぐるに至らざりき。 ○ 加州金澤城中燒失之覺 一、本丸 同所屋形。同所三階櫓壹ヶ所、同所長屋壹ヶ所。同所二階櫓四ヶ所。同所中櫓四ヶ所。同所土藏三ヶ所。同所門五ヶ所。同所橋壹ヶ所。 一、二 之 丸 同所屋形。同所二階櫓四ヶ所。同所長屋五ヶ所。同所土藏九ヶ所。同所門拾壹ヶ所。 一、三 之 丸 同所續玉泉院丸。同所二階櫓三ヶ所。同所長屋五ヶ所。同所土藏五ヶ所。同所門拾貳ヶ所。同橋壹ヶ所。 一、大手門壹ヶ所。同所二階櫓壹ヶ所。同所櫓三ヶ所。同所長屋三ヶ所。 一、坂下惣門八ヶ所。 一、米藏屋敷貳ヶ所、但貳拾三筋。 一、用屋敷拾貳ヶ所。 一、相殘候分左之通。 玉泉院丸之内西之方入口櫓門壹ヶ所。同所土藏二ヶ所。 西北之方城外惣門三ヶ所。右門内花畑小屋敷壹ヶ所。御宮並指續候所用屋敷三ヶ所。 一、城下燒失家數壹萬五百八軒。 内四千百五軒侍並歩・足輕・小者曁家來召仕之者家。九拾九軒寺社。四千七百七拾五軒町屋。千五百六軒寺社門前並百姓地。貳拾三軒毀家。 一、百拾六ヶ所番所。内壹ヶ所毀番所。 一、貳ヶ所弓足輕稽古所。 一、六拾壹ヶ所木戸。内四ヶ所毀木戸。 一、貳百八拾三土藏。 一、壹ヶ所制札場。 一、壹ヶ所囑託札場。 一、貳拾八ヶ所橋。内壹ヶ所大橋。 一、貳拾六人燒死候者。内拾壹人女。 右前月十日申刻寺方より出火、翌十一日巳後刻火鎭り申候。風烈敷候而、書面之通燒失仕候。以上。 卯五月十日(寳暦九年)松平加賀守(重教) 〔寳暦九年火事屆書〕 ○ 世のことわざにも、嬉しき悲しきことは忘れぬものとかや。誠や寳暦九己卯年四月十日金府の大火の大變、記すに猶心をいため、魂をとばし膓を斷つに似たり。子孫にも此うき事を傳へきかせばやと、書集めたるしな〲も一卷とはなりぬ。(中略)、いか成事をもつてか、城下過半廣野のごとくなりしぞや。既に火許者、泉寺町玉泉寺の空地より一町程末に玉龍寺といふが塔中舜昌寺より、未の中刻頃より出火、六斗林の方へは壹町程燒上り、會津妙法寺へ入せうじ(小路)の角切に留る。扨下の方の火は玉泉寺むかひ遍照寺までにて燒留る。火本より玉泉寺空地まで諸寺・町家兩側不殘燒亡して、遍照寺隣寺よりうしろの足輕町さゝか町へ燒出、野田寺町伏見寺門前大圓寺切にやける。向側妙典寺切にて、野町の方は極樂寺の隣町家二三軒、向側いなば藥師翠雲寺の下の方町家等燒申候て火は止る。其間の寺々本妙寺・安住寺・松月寺・淨安寺・伏見寺等悉くやけ、右妙典寺の炎つよく火風はげしければ、犀川の數十間を飛火して十三間町の上町二ヶ所よりやけいで、夫より十方へ付廣がりて火口數もしれず、寺町やけ終てさらに川向の火最中になり、川除近邊水溜御歩町、川上は舟場より壹町程上定小屋の下までにて、川除の方不燒、その火新竪町・百姓町へ出る。新竪町は、九里覺右衞門より貳町程上、百姓町通丁の向に慶覺寺と云一向寺の後筋少上にて留る。立町へ出る火は、犀川荒町近郷、本多遠江家中入口々々の侍町、凡思案橋の下家中出口より疊屋橋へ行こなたせうじ、柹木畠入口城戸境まで侍町殘らず、水車近邊里見次郎右衞門町、柹木畠御厩町、夫より前田左膳近邊大家のこらずやけ通り、右の火古堂形の御藏のこらず燒失、大木へ燒付、梢より御城内へ火移り、御本丸を始として二三の御丸、御門々々、櫓々塀々、御藏々々に至るまで、のこらず一時の灰となりしぞや。此音に城下の老若男女貴賤、魂をとばし行方をうしなひ、家財をも今はをしからじと、つらき命を物種と、或は親を負ひ子を抱きて、まだ火のいたらざる方の一もんしるべの方へ行ば、爰へも火やきたる、かしこへや火のいたるといふ程こそあれ、一向に火筋ならざる所も同じく立退し家内には、心強き男或は一二人ならで殘らず、みな〱町端なる野邊に遁さりぬ。火しめりぬれどもいまだしれやらで、其夜はやけたるもやけぬ人もたちすくみにぞ夜を明しぬ。又遠州(本多)家中へやけ入し火は、家中のうち慈光院の下通り町殘らず、新坂へ行角にてとまる。本行寺の方はやけずして、大乘寺坂の方のこらずやけ、坂の下家中の家二軒のこる。家中の火三口四口になり、遠州屋形にやけつき燒失。此火石引町札の辻の近邊不破勘太夫・野村七兵衞、出羽町等燒失。夫より火口は上下にわかれ、一口は奧村中務へもえ付き、夫より新御殿と申て喜六郎(吉徳七男)樣御住所御殿燒失。其まゝ揚地御殿等も燒失して、材木町へ右の火やけ出ぬ。喜六郎樣にも二之御丸へ御立退之處、御城へ火かゝり候ゆゑ、金谷御門通り宮腰口町端に被爲入、其後御附物頭馬淵嘉右衞門宅古道へ御入被遊御座候。出羽町の内にては齋藤彌兵衞・林淺右衞門・豐島新左衞門舊宅を限、鷹匠町方にて止り申候。右火奧村助右衞門屋形並家中ほうとうじ(寳幢寺)阪の方殘らず燒失、八坂の下松山寺・雲龍寺等の大寺やけずといふ寺なし。小立野はつばや(鍔屋)小路まで、奧村助右衞門長土壁(塀)の家中へは火入らず、駿州(前田)下屋敷過半燒失、前田兵部・前田主馬等燒失。右之火寳圓寺本堂へやけ付燒亡、山門まで殘る。門前の町へ出ず、馬坂・田町の方へ燒出、田井天神堂まで殘る。新町等悉燒ぬけ、上川除へ燒出る。其道々侍町の家並壹軒ものこらず、横山藏人・山州(横山)上屋敷下屋敷に至るまで一軒ものこらず燒失。材木町へ出る火は幾口ともいふ事しらず、みな淺野川へ燒拔る。 御城よりの火は、小將町奧村主水、新堂形より劍崎辻、それより御小人町壹番丁・二番丁・通町・湯涌屋せうじ・齋藤又六等町、のこらず燒通り、是又山州家中へ燒ぬける、又公事場・奧村兵庫・多賀内匠・九人橋より、右之方味噌藏町中町等より材木町へやけ出る、是又壹口。由比三始郎・高木伊織等燒失の火は、九人橋より左の方材木町へ出、備中町の方へやけ、淺野川へ是又出る。大手之方、御細工所・越後やしき等燒失。津田玄蕃・寺西彈正等燒失にて、松平玄蕃・津田嘉源次・前田式部・奧野兵庫等燒る。前田駿河やけのこると申内、本屋よりやけいで、長屋までも燒失。右の火今町へ出、尾張町・新町・西尾隼人燒失。彦三一番丁入口せうじより、母衣町澤田伊左衞門等やけ、國澤太次兵衞まで燒る。太次兵衞より橋の方は、淺野川橋の方より燒來る。寺西彈正方の火、御普請會所夫より味噌藏町のこらず、材木町え出、靜明寺近邊にやけぬけ、又は津田玄蕃屋敷等燒失。御城より飛火幾口といふ數はしれがたし。殘らず淺野川川除えやけぬけ申候。淺野川橋向、御歩町・觀音町・觀音院・愛宕の下町々小路々々・八幡宮・同町・四丁壹番町・貳番丁・蓮昌寺町・西養寺町・念西町・茶屋町・玄門寺門前・來教寺門前・心蓮社門前等悉く燒亡。本通り森本町・金屋町・高道町善導寺にて火留る。淺野川左の方、馬場裏町向側奧野嘉藤次・土師清太夫、馬場壹番丁・貳番丁殘らずやけ、砂はせ・大衆免の方へ燒ぬけ、大組足輕五軒燒失にて火止る。十一日巳刻までに野原のごとくなつて、只茫然とあきれはてたる計なり。或は藏の殘るを悦び、又土藏のいきぬけおそく、又やけいでやけいで、殘火十一日暮合迄やけ果ず。或は御城等は、夫(ブ)を以水を掛させらるゝといへども、大木の梢へもえあがり、人力を以消事あたはず、とかく心魂をなやます計也。御母君實成院(重教)樣には、二之御丸え火かゝりぬれば金谷通御立退、宮腰ぐち放生寺といふ寺え御立退、夫より前田土州下屋敷亭え被爲入、追而金谷御殿え被爲入る。喜六郎樣にも金谷御殿え被爲入る。八十五郎(吉徳五男)殿には金谷御殿在住之處、危く候に付大豆田淨住寺え御立退に而、追而金谷え被爲入候。右御三方樣とも金谷御殿え被爲入、夫々の御圍ども、只今まで操姫(吉徳七女)樣・善良院(重靖生母)樣被爲入候儀に付、實成院樣・喜六郎樣被爲入御差支無御座候。八十五郎殿御在住は、最初よりの處に被爲入候。 一、今度大火事に御座候處、火之中に而も不思議に助り候人々、犀川口に而者玉泉寺・國泰寺、犀川荒町後町に而吉田貞丞、御城下尻垂阪の近邊吉田政丞・山本宗助・山田權左衞門・長谷川順左衞門・大野津左衞門・富田藏人・佐藤直記、今町・尾張町・新町・博勞町の方人口々々は殘り申候。淺野川むかひにて了願寺近邊一文橋の方のこる。並愛宕明王院、其下小家一軒・安井勘左衞門、右之通火之中に候得共殘り申候。犀川水溜御歩町四方やけ候内にも、御馬乘御歩櫻井甚太夫、御歩小頭津田幸左衞門隣御居間方小泉彌門のこり申候。其外其火のとまり〲、皆々不思議にのこる。火の中にあらざれは不記。追て一人もるゝゆゑ爰に記のこす人々、火中にては大工町せうじ井上半左衞門・山瀬團右衞門・中村勘次・中村市郎左衞門・一色伴六・藤井平左衞門・中村左次馬・松崎喜兵衞・渡邊團有衞門・大村市介・近藤五郎左衞門、右之通。大村市介となり牧甚五左衞門やける。松崎喜兵衞隣町家、中村左次馬隣町家やける。主馬殿町にて、御料理人澤村七郎次火之中に而殘り申候。富田九郎右衞門・廣瀬平丞・毛利長左衞門等、近邊町家まで火來り候得共やけ殘る。宮内橋・疊屋橋番人長屋平兵衞・熊内所左衞門・山本久右衞門まで殘り申候。かくのごとき大變なれば、江戸に重基公(重教初名)御在住に付、加州より早飛脚四月十日の夜發足いたし、東武御屋敷へ到着十五日朝五ツ時前也。 〔寳暦九年金澤火事之一卷〕