當時窮乏に陷れる士人が最も普通なる借財の方法は、將來に屬する收納米を抵當として米穀仲買人より借入銀を爲すに在りしといへども、是等は抵當物件に限りあるを以て、到底限なき缺乏を救ふこと能はず。遂には大寺院の役局に交渉して、その蓄積せる祠堂金を借出すが爲低頭平身するの醜状を顧みざりしものあることは、之を現に存する能登總持寺の日録に徴して明らかに知り得べく、この種類の記事は既に元祿の頃より顯れ、寳暦以降に於いて益甚しきを見る。總持寺以外の諸寺院に於いても、これと同一事象多かりし事は固より推察に難からざるなり。 一筆致啓達候。甚寒之候。然者御屋敷表御借用之本山祠堂利金、今般同役寳幢寺致出府(金澤へ)候間、無相違御渡可被成候。爲其如此御座候。不宣。 十二月一七日(寳暦三年)惣持寺役局 前田故對馬守樣御家老中前田多宮樣御家老中 前田万之助樣御家老中横山求馬樣御家老中 深見治部樣御家老中奧村主水樣御家老中 山崎次郎兵衞殿[井口五郎左衞門祠堂利足才足(催促)は寳圓寺侍者まで申遣也] 永原源三郎・平田故外記役人中・安見傳五郎・三宅權左衞門・遠藤紋太夫・大久保八郎左衞門・江口新左衞門・井上勝十郎・宮崎杢兵衞・大原[十郎左衞門權兵衞]・阿岸與一郎・中村貞左衞門。 右之面々は、祠堂年賦元利之催促也。文體常之通故不記。 外津田玄蕃殿、先年一ヶ年未出來、年賦之さいそく仕候。金五兩宛出來なり。 〔總持寺日録〕