天明三年諸色高直にして藩の金融逼迫し、七月の節季に諸拂を爲すこと能はざりしかば、御勝手主付村井又兵衞長穹及び前田土佐守直方は引責指扣を命ぜられ、御算用場奉行藤田兵部安貞等も亦指扣を命ぜられたり。この年氣候不順にして凶作全國に亙りしかば、十一月御用番前田大炊孝友は町民一般に粥を食とすべきを諭し、翌四年二月十七日には、用米の不足を感ずること益甚だしかりしといへども、藩外より之を輸入するの途なかりしを以て、嚴に粥又は雜炊を食すべきを命じ、資産の豐なる者も亦貧者と憂を別つべく、穀菽の餘剩あらば之を他人に貸附し若しくは賣却して、秋收の季に至るまで食料を持續せざるべからざるを令せり。次いで同月晦日又頭分以上の士に論示する所あり。曰く、如今在江戸の老侯重教及び今侯治脩共に藩に歸らんとし、旅費及び日常の費用を要すること大なるも、去歳の凶作により農商金穀を有すること尠きが故に、藩外より約二萬兩の借欵を爲さんと計畫しつゝあり。而して若しこの借欵にして成立せずんば、憾むらくは兩侯發駕の期を延べざるべからず。抑藩費の缺乏を告ぐること多年に亙れりといへども、未だ危急今日の如く甚だしきはあらず。士として藩の祿を食むもの、亦深く之を念頭に置きて機宜に處せざるべからずと。之によりて當時の事情を察すべし。然るにこの後幾くならず、重教は三月十五日を以て金谷御殿に歸り、治脩は四月朔日金澤城に入りたるによりて考ふれば、江戸の邸吏は何等かの方法を講じて費用を融通し得たる如くなるも、固より單に一時を糊塗するに過ぎざりき。 翌天明五年に至りては上下益困厄に陷り、質屋營業者すら資銀の缺乏を理由として貸出を停止するに至りしかば、九月藩は之を以て彼等の義務を盡くさゞるものなりとし、百十人の營業を禁止したるのみならず、擔保物件は之を元の所有者に返還せしめ、之に對する貸金の辨濟は三十ヶ年賦を以て要求すべきことを命じたりき。この月治脩は、財務整理の爲老侯重教に國政の監督を請ふことゝし、同時に令して、從來藩が士人より徴したる借知は到底之を廢止するの途なきを以て依然之を繼續すべく、その結果逼迫を來すべき士人に對する救濟策として、一切の借銀は債權者の何人たるを問はず明年以降之を永年賦として償還すべきことゝせり。時人之を徳政と稱す。 天明五年九月十一日町奉行え達 町中質屋致商賣候者、當夏以來銀支申立其用不辨、輕き者共甚だ困窮當年にも不限候。毎年時々不辨(便)至極之由相聞え候。元來質屋之儀は、末々輕き者共に運之ため致商賣事に候得者、不指支樣可相心得候處、是迄質商賣方等閑之致方、末々輕き者指支も不厭段不埒至極に付、右商賣方取揚追込可申付候。依而品物之儀者先々持主え相返、來午の年(天明六年)より三十ヶ年賦を以代銀取立可相渡候。 右之通申付候に付、此以後質商賣指止候而者末々指支可申候間、相應之者右商賣相願候樣可申付候。尤願候者候ば、相應に銀子貸渡有之樣可申渡候。 右に付金澤町質屋百拾人不殘追込申渡有之。 〔政鄰記〕 ○ 天明五年九月十五日御書立 御家中諸士、近年勝手難澁之儀被聞召候。然處當時一統承知之通、御財用甚御指支、最早御仕送方御手段無之程之期に至り候故、中將(重教)樣御勝手御引取御下知被遊候。仍之御運方御詮議之上、御家中御借知被返下度被思召候得共、兼而之思召とは致相違、彌増之御逼迫に付難被及其御沙汰、御心外被思召候。左候得ば取續方可爲難儀候間、諸借銀等返濟方相對を以永年賦に申談、是以後幾重にも儉約專にいたし取績、惣而質素に相暮可申候。 〔政鄰記〕