前田氏第十一世治脩は、越中射水郡勝興寺の住持より還俗して兄重教の世嗣となり、明和八年四月封を襲ぎたるものにして、時に齡二十七なりき。この時治脩初めて將軍家治に謁したりしに、家治これを戒めて、卿は今日より大國の主となりしものなれば、克く勵精治を求めて政に懈る勿れといへり。既にして治脩封に就くに及び、老臣を會して告げていふ。前侯重教尚春秋に富みて致仕し、余の固辭する能はずして統を襲ぐに至りしは、その間實に已むを得ざる事情ありしによること、固より汝等の熟知する所なり。然り而して前侯の余を愛すること至らざるなく、日々余を膝下に延きて教誡するもの父母の赤子に於けるに異ならず。是を以て、余は偏に侍養の道を失はんことを恐れ、將軍の余に暇を賜ひし後も尚府下に留りて朝夕定省するを得るを樂しみ、その左右を離るゝに忍びざるものありき。然るに前侯余に諭すに、宜しく速かに封に就きて士民を綏撫すべきを以てせるが故に、遂に命を奉じて途に上れり。抑余は幼時より府城を離れて邊陬に人と爲りしものなるが故に、一朝忽ち群臣百姓の上に立ちて政令を施さんとするもの、固よりその任に堪へざるを知る。冀くは汝等同心協力して輔弼の道を盡くし、以て余をして罪を祖宗に得しむる勿れと。蓋し治脩は庶出にして一旦桑門に入りしものなれば、今や三國に君臨して諸侯の巨擘たらんとするに及び特に將軍の訓諭を受く。是を以て將に大に奮勵して政績を擧げんとするの意あり。乃ち衷情を披攊して先づ老臣の翼賛を得んと欲したるなり。而して前侯重教の退隱せし當初の理由は、老臣互に融和せずして財政整理の績を擧ぐる能はず、士民偸安に流れて風俗日に漓薄に流れたるが爲に、藩主の責務を盡くす能はずとして憂苦遂に疾を發したるに在るを以て、治脩が風教の刷新を以て治國の第一義とせること固より當然といふべく、その實行方法としては、一は忠孝節義を顯彰し、一は學校を起して文教を盛にし、以て衆民の向かふ所を知らしむるにありき。されば群臣を戒むること極めて嚴正にして、重職に在る者に對しても尚寛假する所なかりしは、侯が横山山城隆從に與へたる諭示によりて略その全貌を察すべきなり。 任心付申入候。 一、御手前酒を好、呑被申候樣に承候。左樣に候や。何樣欝を散じ、保養にも成候物之由及承候へば、於宅者保養にも成候程は用ひ被申候而も可然哉。併一家一類たりとも他所において呑被申事は堅無用、不圖心外之世評などに預り候而は以之外之次第に候間、此處屹度相愼可被申候。宅とても過酒者かならず無用。其子細は兼而も申候通、各勝手向之儀者細事に而茂すみやかに相洩候間、少も油斷有之間敷候。其上過酒は却而保養之害に相成候。旁以其段も可被相守候。畢竟酒と申物は、用ひ樣次第にて其得失有之事と相見え候。惟酒無量不及亂と申事、失念有之間敷事。 一、勝手向何となく繁花、妻女之取沙汰も有之候。若心あたりの品も候はゞ早々改可被申候。かやうの處は猶更平日の覺悟に可有之事と存候。各奧向は諸士勝手向之手本に候。然者少も油斷有之間敷事。 一、裝束も美服と申に而は尤無之候へ共、何となく惡敷方には不相見え候。たとひ廉品に候とも、染色など目立候哉又は節々着替候儀などが人々目を附申物にて、自然与裝束好与申樣に相見え申物に候間、かやうの處も小事ながら風俗の害に成候端に候間、心得も可有之事。 一、能囃子も折々催有之樣に承候。右慰には有間敷品と申に而は無之候へ共、たまさかは格別、度々は遠慮可然事。 一、一門は勿論心易人々振廻(フルマヒ)付合之事、人倫之道に候へば闕き可申樣は無之事に候。かやうの處は其道を守り、扨其致方によつて却而一統風俗のならはしにも相成候樣之事業可有之事に候。其程考可被申候。猶序之節了簡之趣も可被申聞候。兎角に内外之愼相違有之候而は、實儀無之事に相成、各兼々被申隱惡之風俗之基と存候條、急度相愼可被申候事。 右者差あたり存付候分申入候。猶面談に可述候。以上。 九月廿一日(年不詳)加賀(治脩) 横山山城(隆從)殿 〔横山男爵家文書〕 前田治脩筆蹟侯爵前田利爲氏藏 前田治脩筆蹟