孝義を旌表するは、從來歴世の藩侯皆之を爲さゞるなかりしといへども、特に治脩の世に於けるが如く盛なりしものあらず。時人亦之を以て國家を興隆し民心を善導する爲、最適切の方法なりと考へたるが如く、寛政六年には有志亭主人の名を以て著せる加越能三州孝子傳あり。享和二年には河合良温の文に成る三州良民言行録あり。その記載する所治脩の世の事のみに係らずといへども、而もその大部分を占むるを見る。 治脩の孝義を旌表せし者の第一に顯れたるを羽咋郡生神村の孝子久右衞門となす。久右衞門の父善兵衞は邑の肝煎なりしが、資性敦厚にして力田を以て隣保を化し、其の貢租常に他邑に先んじたりき。是を以て元文五年善兵衞に米若干、組頭及び村民十一人に賞を賜ひしことあり。久右衞門亦人と爲り孝勤慈篤、父に代りて肝煎となりしが、自ら爲さんと欲する所は必ず父に稟して後に之を行ひ、夜は則ち父母の臥室に入り、蓆を敲き塵を除き以てその寢を安からしめき。善兵衞喘息を病み、動もすれば發作したりしを以て、久右衞門は深く之を憂へたりしが、一日富木村の僧來り宿し、善兵衞の病を見て曰く、萆薢を服すれば善く痰を治すべく、而して我が邑の産する所特に奇効ありと。善兵衞乃ち之を得んことを懇請せしに、僧は如今雪深くして得る能はざるを以て、春陽至らば則ち之を贈らんと應へたりき。久右衞門側に在りて聞き、直に席を蹴りて去りしが、數刻にして纍々たる萆薢を手にして歸り、善兵衞に勸めて曰く、試みに山間に就きて探りしに幸にして所在に之を獲たりと。聞く者皆驚嘆して孝感の致す所なりとせり。久右衞門また施與を好み、人の危急を救ひしこと枚擧すべからず。旁近の民これに化して醇朴風を爲し、市價貳せざるに至れり。藩之を知りて安永三年九月三人扶持を賜ひ、諸役銀を蠲す。後天明五年、久右衞門の班列を進めて十村に准ぜしめき。