天明五年治脩は義商清五郎を褒旌せり。清五郎も亦鹿島郡所口の人にして、岩城氏、家を鹽屋と稱し、豪富を以て遠邇に聞えたりき。兄泰藏學を好み、恩信を以て著れしが、子なかりしを以て清五郎を嗣とせり。清五郎は穆齋と號し、幼より經藝を尚び、賢を敬し師を禮し、信義慈惠にして學ぶ所皆之を日常行事に施せり。曾て海參を漕運して大坂に往きしに、偶その價の升騰するに會したるを以て利する所頗る多かりしが、清五郎則ち郷に歸りし後己の利を割きて悉く海參の販戸に頒ちたりき。是より人益その徳義に懷けり。天明の初、所口の吏令を濱海の諸邑に傳へて、凡そ海參を鬻ぐ者は舊來皆清五郎を經由したりといへども、今より以後直接に藩に販賣せんと欲するものあらば之を許すべしといひしに、販戸皆舊の如くせんことを請ひしかば、清五郎の令名益馳せ、遂に稱して所口の賢人と呼ぶに至れり。藩之を聞きて清五郎に金子を賜ひ、里胥の班に列せり。 孝子重兵衞も亦天明八年を以て旌表せらる。重兵衞は能美郡一針の農なり。年十四にして父を喪ひしが、母に事へて孝養を盡くし、長ずるに及びて耕耘を力め施與を好めり。人重兵衞に就きて農具を借らんことを求むるものあれば未だ曾て吝容なく、又錢穀を貸して息を收めざりき。重兵衞隣氏の貯穀を賣りて利を謀る者を見るときは、則ち之を誡めて曰く、利を希ふは商賣の事なり、農家は今年の成熟を見るに及ばざれば儲糧を虚しくすべからずと。秋に至りて穀稍豐かに、價亦隨つて賤しきに至り、その餘す所を出して悉く之を鬻げり。郷俗爲に大に化し、皆重兵衞の志行を嘆稱せしかば、藩は錢若干を與へて之を賞したりき。 又金澤の工匠多助の子に仁太郎といふ者ありしが、幼にして至性ありき。寛政元年夏父事に座して獄に下りしに、仁太郎は之を嘆じ殆ど寢食を廢せり。既にして多助疾に罹りしかば、仁太郎は日々八幡社に詣でゝその快癒を祈り、翌二年獄に至りて父に代り繋がれんことを請へり。藩吏因りて状を具して以聞せしに、特に多功を釋放し、仁太郎に米若干苞を賜へり。