忠僕八兵衞は石川郡鶴來邑の人にして、金澤の商賈庄九郎の奴となりしものなり。庄九郎後に産を失ひ、家を賣りて僦居せしかば、八兵衞は之を慨し、日夜憂勤して興復を念とせり。庄九郎その志を憐み、爲に諭して曰く、汝の忠誠殆ど世に比類を見ざるは我能く之を知れり。然りといへども草木も膏腴の地を得ざれば繁茂すること能はず。汝にして他に良主を求めば、當に大に身を立つべきなり。我が家に留ること久しくして汝の生涯を誤ること勿れと。八兵衞辭謝して曰く、余初め主家に仕へしとき、自ら再び他主に仕へざらんことを誓へり。是を以て幸に舊恩に負くなくして犬馬の齡を終るを得ば、余の望即ち足ると。これより俸を與ふれども受けず。既にして庄九郎の女病むや、八兵衞は之を愛撫看護すること己の所生に於ける如く、その逝くに及びて哀惜の情面に顯れき。是に至りて八兵衞の悃愊至誠、普く衆の傳ふる所となり、寛政三年藩は米若干苞を賞賜せり。 同年孝子池田市右衞門もまた旌表せらる。市右衞門は元來大聖寺藩の足輕窪田卯兵衞の子なりしが、小松城の鐵炮足輕池田平右衞門の嗣となりしものなり。市右衞門幼より學に志し、長ずるに及びて躬を率ゆる極めて謹嚴、義父に事へて至孝の名ありき。平右衞門致仕の後薙髮して了山と號し、邑の妙圓寺に入りて隱棲せり。是に於いて市右衞門は、公事の餘暇飮食を調へて歡を買ひ、外に在りて珍糕嘉果を得る時は必ず趨りて之を了山に饋れり。一日市右衞門公務を以て安宅に往きしに、この日風雨特に激しかりしかば、鄰人市右衞門の獨居して之を迎ふる者なきを憐み、脚湯を温めてその歸るを待ちたりき。既にして市右衞門は家に歸りしが、未だ草鞋を脱するの暇なく直に往きて了山の安を訪はんとせり。鄰人曰く、今日天候穩ならず、疲憊必ず甚だしかりしならん。宜しく先づ足を洗ひて父を訪ふべしと。市右衞門謝して曰く、風雨未だ歇まず、我老親を念ふこと特に深きものありと。則ち走せて妙圓寺に赴けり。是を以て了山の他に會するや、必ず先づ市右衞門が奉養の厚きを語りて之を悦べり。既にして今年四月了山疾を得しかば、市右衞門は晝夜その側を離れず、起臥を扶け藥餌を供せしが、了山の竟に癒えずして歿するに及び、市右衞門の哀痛慟哭類を絶し、郷里皆爲に悲しめり。事聞し、米五苞を加俸せらる。