又與兵衞といふ者ありて、金澤鱗町に住し、家を能登屋といへり。與兵衞の弟三人皆孝友、與兵衞は内に在りて父母に給事し、他は賈を業とするを常とせしも、若し父母の疾むことあれば、同胞皆外に出づることなかりき。後父七十八歳にして殺せしを以て、人與兵衞に婦を迎へんことを勸めしも、與兵衞は母の意を煩はさんことを恐れて遂に肯んぜざりき。與兵衞又暇あれば日夕戸外に出でゝ道路を修理し、三冬積雪ある時は耒を採りて之を除き、若し氷凍凝結すれば灰を散じて顚倒の憂を防ぐを常とし、天明三年秋大水ありて、鱗町に架する所の橋梁爲に流失せんとせし時には、與兵衞兄弟大石を運び來りて之を壓へ、以てその難を免れしめき。寛政三年錢若干を賜はりて之を賞せらる。 孝女末は寛政四年を以て褒賞せらる。末は小松の醫宇都宮正安の女なりしが、父母は痼疾に罹り、兄は京師に遊學し、而して妹尚幼弱なりしかば、獨女紅を賃作して衣食を辨じたりき。父母その勞苦を矜み夜業の休止を勸むるときは、末則ち唯々として寢に就き、父母の睡れるを窺ひ竊かに起きて事を執り、鷄鳴に達して後止めり。是の如きもの數年にして齡二十五に達せしかば、人之に婚を説くものありしも、末は常に辭するに父母の老病を以てせり。事藩吏の聞く所となり、米若干苞を賜ひ、後一人扶持を給せらる。 孝子傳右衞門は寛政五年を以て旌表せらる。傳右衞門は金澤の人にして、その家貧しかりしが母に仕へて至孝なりき。傳右衞門年已に壯なりしも、家庭の雍和を傷り旨甘親に給せざるべきを恐れて敢へて婦を娶らざりき。傳右衞門の弟善助は、志行極めて凶險、嘗て罪を犯して獄に繋がれしが、その釋放せらるゝに及び母之を怒りて逐はんとせり。徳右衞門爲に涕泣謝して曰く、彼も亦善に遷るの期あるべし。况や骨肉の割くべからざるものあるに於いてをやと。友愛の情切々人に迫りしかば、善助は大に慚愧して終に改心せり。