孝子三四郎は鳳至郡廣江村の人なり。幼にして母を喪ひ、父に事へて敬養備に至れり。凡そ百事父の命を稟くるに非ざれば敢へて行はず。その命ずる所或は理に違ふものあれば則ち暫く之に從ひ、悦豫の時を候ひ幾諫して改めしめき。又父の外出するときは必ず之に隨ひ、父若し止むることあれば窃かに籬間より窺ひ、その影の沒するを見て家に入れり。 孝女たよは金澤の人泉屋又右衞門の女なりしが、家固より貧にして幼より他家に仕へて婢となりしが、長ずるに及び父は痼疾に罹り母は明を失ひ、祖母弟妹皆徒食するのみなるを以て、遂に飢寒を免る能はざるに至れり。是に於いてたよは主家を辭し、日夜紡績を賃作して衆口を糊し、且つ自ら笄簪衣服を捐てゝ醫藥を購求したりき。時に祖母の齡九十に達し、藩の制によりて養老俸一人口を賜ひしかば、祖母は大に喜び、たよに屬して資用の補助とせんと欲せしに、たよ、これを私するは藩侯の惠澤を空しくするなりとして肯んぜず。日毎に旨甘を調へて祖母に供し、其の身は業を執りて益努めしかば、爲に家道乏絶するに至らざることを得たり。衆皆以て天の陰かに孝子を助くるなりといへり。 繼母いちは金澤の人なり。その子與兵衞を愛育すること、恰も所生に於けるに異ならざりき。夫死して後、いちは日夜女紅に從事して衆口を糊せり。與兵衞長じて放縱無頼なりしかば、いち之を哀みて常に訓戒を加へ、その惡を蔽ひて世の知る所とならんことを恐れたりき。既にして與兵衞債を負ひて出奔せしに、いちは人を遣はして之を伴ひ歸らしめ、痛嘆憂苦の情眞に面に顯れたりといふ。