忠僕與助は石川郡高尾村の農伊助の奴なり。伊助の事に座して金澤の獄に繋がるゝや、與助甚だ之を憂へたりしが、幾くもなく伊助の病に罹りたるを聞きて自ら獄に赴き、主人に代り錮せられ以てその病を療せしめんことを請ひ、痛哭して去るを肯んぜざりしかば、藩吏その忠誠を嘉賞し、特に伊助を出して藥餌を服せしめき。後數月にして伊助の疾略癒えしを以て復入獄を命ぜられしに、與助は更に獄中に隨ひて看護に當らんことを請ひしも、藩は國法の許さゞるを諭して許さず。後期に滿たずして伊助の罪を宥されたるは、與助の忠誠を嘉せられたるに由るといふ。 又節婦豐といふ者あり。金澤の商賈田中屋紋左衞門の妻にして、姑に事へて愛敬を盡くせり。姑癱疾を患へて七箸を取るに堪へざりしかば、豐は之に哺せしむること十年一日の如く、專らその心を慰撫するを努め、且つ日夜勞苦を躬らして家政の艱苦を濟ひ、夫に對しても亦最も恭謹なりき。事藩の知る所となり、將に表旌せんとせしとき豐偶病みて死せしかば、錢一萬五千を與へて追賞せり。上記傳右衞門以下三四郎・たよ・いち・與助・豐の賞せられしは、皆寛政五年に在り。 寛政六年治脩孝子四郎右衞門兄弟を旌賞す。四郎右衞門は珠洲郡雲津の人にして、弟總右衞門と共に孝友力田を以て名ありき。父先に歿せしかば、四郎右衞門朝夕妻子を率ゐて母を定省し、然る後内佛に詣拜するを常とせり。總右衞門は叔父に養はれて嗣となりしが、亦能く義父母に事へ、義父母の歿したる後は日に生母の安を問ひ、美味を得れば必ず趨りてこれを饋れり。かくて兄弟の友愛極めて厚く、薙睦風を爲し家に違言なかりしかば、郷閭の父老その子弟を教ふるとき毎に四郎右衞門兄弟を擧げて之を稱し、鄰里亦爲に薫化せられ力田を以て産を興しゝ者尠からざりき。是に於いて藩は四郎右衞門兄弟に各一人扶持を賞賜せり。 義民長次郎は翌寛政七年三月を以て賞せらる。長次郎は鳳至郡五十洲の舟子なりしが、去年四月叔父源右衞門の罪を獲て金澤の獄に下るや、長次郎乃ちその妻に訣別して曰く、我今將に叔父に代りて獄に繋がれんと欲す。縱令命を非業に殞すことありとも、海上颶風に遇ひて溺死せるに勝ること萬々なり。汝決して之を恨む勿れと。遂に吏に抵りて叔父に代らんことを請へり。吏長次郎を諭して、源右衞門の刑未だ測る可からず、若し大辟に當ることあらば汝悔ゆとも及ばざるべしといひしに、長次郎は、我父を喪ひてより叔父の恩愛を得るものとゝに十有七年なり。今幸にして之に報ゆるを得ば、死も亦畏るゝ所にあらずとて、決意辭色に顯れたりき。吏乃ち状を具して以聞せしに、特に源右衞門を釋し、又長次郎を賞して錢五千文を賜はれり。